そう思う。
別にこれは考えすぎでもなんでもなくて、役割をすら果たせていないのではないかとおもうことが多い。心の底から楽しめているのかと。自分の考えに率直で、素直に楽しんでいる人を見るたびに、なんとも羨望の眼差しである。じぶんは心の底から楽しめてはいない、ような気がする。中途半端だ。

よくある評論として、人々には「子ども」としての自分があり、「社会人」としての自分があり、「友人」としての自分がある。つまり、人々は時と場合に応じて、自分の役割─ロール─を使い分けている、というものだ。これには特に疑問はない。大いなる問題は、これらと同様に「オタク」としての自分がある、のかどうかよく分からないのだ。

抱き枕カバーには癒やされる。エイラのねんどろも見ていて楽しい。けれど、時々これって嘘なんじゃないか。そういうふうに思ってしまう。確信ができない。キャラクターの愛さえあれば、タロットなんてなくなさないだろうし、ねんどろすら上手いこと組めない自分に腹は立たないはずなのだ。だから、ロールプレイにすら失敗しているのではないか、と思ってしまう。ちゃんとできない自分に、憐れみを感じる。きわめて突き抜けることもできず、オタクの理解者であるかのごとく振る舞う。そういうのは醜悪でないか。

「正しいオタク」なんていうのは、まったく存在しないことは分かっている。けれど、どうにも、中途半端な存在であって、自分自身が嫌になる。無様である。

でも、きっと思い込みのような部分から、どの役割もスタートしている。だからこそ、今はそういう疑問があってしかるべきではないか、とも捉えている。