結論から言えば、個人の、きわめて直感的な感想が必要だと思う。直感的とは、まさしく、自分が映像を見たときに、感じた気持ちそのままである。何か違和感があれば、他の人にとってはそうでなくとも、あなたにとっては違和なのだから、映像になにかが隠れている証拠なのだ。その違和を表明すれば、他の人が抱かなかった、もしくは、黙認してしまった違和に気付く。つまり、他の人にとっては、見方が一つ増えるのだ。これを繰り返していけば、映像の見方は、まあ有限ではあるけれど、多様になる。一つの見方を強制することは息苦しいので、多様性を排除する社会に将来性はまったくない。ゆえに滅ぶ。

自分とは違う意見であっても、受容することが大事なのだ。一定の論理や根拠がある意見を、安易に否定するのは、誠に愚かなことだ。それは視野を狭めてしまうだけであって、独りよがりである。このような意見が許せないとも思ってしまったことは、自分は何度もある。根拠がある意見に対し、理屈が通った意見に対し否定をすると、自分の視野は狭まり、まさしく暗中模索状態になる。だからこそ、肯定できない意見であっても、とりあえず受容してみることが重要ではないか、そう思う。

直感とは、おそらくこの世で最も信頼たる、自分のパートナーである。他人によるバイアスや、集団的な心理を仕入れてしまうと、途端にそれは脆くなってしまう。直感に自信がなくとも、それは、確実に、自分が感じたことであるのだ。感性とは誰かが肩代わりできるものではない。自分が信頼してあげる以外で、それを活かすことは不可能なのだ。感性とはなにか。表面的な思いとは異なった、心の底で生じた、些細な気持ち・違和感・疑問、それが感性だと思っている。それを黙殺せず受容することこそが、まさしく、直感的な感想につながると僕は考える。すなわち、最初に受容すべきものは、自分である。