☆chiakiちゃんのブログ☆(別館)

日々の徒然、雑多なテーマに対し雑に述べる→本館はGOMISTATION

カテゴリ: 雑記

「怒り」を嫌う人はとても多い。自分の家族は特にひどく、父親と母親の間で「怒り」が起きて何も解決しない。そのようなことが長く続いたので、とうとう「怒り」そのものを回避するようになった。それが以前の、調整役としての僕の役目であり、両親を助けるための手段であった。

5、6年ほど経ってようやく分かったが、これは決定的に間違いであった。「怒り」を回避するために、常に誰かが気を使っていなければならなかったのだから、神経質になるのも仕方がない。それで、上の二人は早々に、あの家を脱出し悠々自適な生活を送った。僕は学生身分であったので、脱出できずにいた。いや、それどころか、調整役としての自分を誇りに思っていたとさえ、今振り返ると思う。そして、ある日、破綻した。そして、「お互いに話し合え、怒りをぶつけろ」と親に提案した。両親はそれを了承せず離別した。

そして、いろいろな日々を過ごしてきたけれども、とかく兄弟は何があろうとも揉め事を良しとしなかった。「怒り」を封鎖し続けた。僕は、先のことがあったので、「共同体において、衝突は不可避である。『怒り』は避けるのではなく、最小限にすべき」という方針を提案したが、これも結果としては却下された。そう、彼らは、「怒りの封鎖」の恐ろしさを身をもって体験していないのである。溝ができて当然だ。結論だけ言えば、長女と両親とは絶縁状態にある。今年の09.10月には、主に家族問題において、辛い事が重なった。積もり重なっていた。まるで、自分の「怒り」は正しくないものと思えてしまうようになった。どのような怒りをもってしても、何にも対抗できないでいた。

転機はこの前であった。ああ、なるほど、と会話をしていて感じた。深く深く納得した、すべてが繋がった。結論から言おう、「怒り」を良しとしない人間は、それと同時に「繊細さ」をもたない。繊細さをもたない人間は、己を省みることもなく、他人に注意を払わない。よって、他人を慮らない、極めて利己主義な人間となる可能性が高い。あくまで可能性であるが。その一方で、「怒り」を良しとする人間は繊細さを持つ。注意しておくが、この「繊細さ」という言葉は、良い意味合いでは使っていない。ニュートラルである。すなわち、繊細さをもった人間が、神経質となるか、他人を慮らるか、管理が上手いか、分析的であるか、姑のようなネチッコイ性格であるかは、まさしく個人個人によって変わる。その発現の仕方は個人によって異なるだけであるが、繊細さを持ち合わせていない人物とは比べるまでもなく、利己主義になる可能性が低い。ただ、前述したとおり、「繊細さ」は個人の生き方によって、その分化が変わる。「繊細さ」は、まさしく諸刃の剣といえる。自分を傷つけてしまうこともあるし、自分や他人を助けることもできる。ストレスフルな生活を送るか、それとも、楽に生きることができるかは、「繊細さ」の使い方によって決まる。こういう風に、自分の中では整理がついた。


と、いろいろ理屈じみて書いてみたが、ぶっちゃけ、これは願いである。そうあって欲しい、という思い。

中高生の読解力にかんして、低下しているという記事がこの前出た。僕としては、載っていた問題を、一瞥して嘲笑するばかりであった。なぜか。読解力とは、ひっかけテストでは測れないからだ。その問題のどこでミスをおかしたか、を的確に見定めるためには、まず、語彙の知識の確認、短文の読解の確認、そこから文章/文脈の読解の確認へとつながっていく。

今のおおかたの読解力テストは、語彙の知識も関係なく、短文の読解を必要とせず、文脈のみばかりを読解させようとする。このような、ひっかけ悪文は読解力を的確には測定できない。論理性を重視した文章、合理的な結論を当てさせる問題などが、読解力の本質であると思っているが、巷の人にとっては、少し集中を欠いただけでミスってしまうような、ひっかけ問題が読解力を測定できると誤認しているようだ。

また、呆然としたのは、「それでは、分かりやすい文章を心がけ、そういった文章教育をするべきだ」とい批判がいっさいなかった点である。わかりにくく読解に時間がかかる、霞が関文章、役所の細々とした文章を読んで、いたずらに時間を無駄にすることが、果たして合理的であろうか。社会にとって、利益的であろうか。僕はまったくそう思わない。なんなら、敬語さえも、特別な場を除いて、使う必要すらないと思っている。それらは全て実利がなく、無駄である。

日本の国語教育は他国に比べて、非常にずさんである。と言うしかない。漢字テストを受けさせ、漢字の意味を覚えさせない。使用語彙と理解語彙の区別をしない。ひっかけ問題のような読解力テストを賞賛する。これでは、SNSやネットがいくら発達しようが、他人に対して、自分の意見を伝えることはままならないのではないか。不特定多数の他人と意見や議論を交わすことは、難しいままではないのか。そのように、ずっと苦しもうとする、まるで体育会系のシゴキのごとき、文化人のハラスメントには、呆れるしかない。

ぼくらにとって、ダウンタウンとは「テレビの存在」であったはずだ。いかに現実で撮影が行われているとはいえ、彼らのコントを見るのはブラウン管の中であった。ネットが普及するにつれ、ロケが終わると、SNSで芸人が発信し宣伝する。Amazonビデオでは、松本人志が企画した「ドキュメンタル」が、まるで、以前のテレビと同じように流れている。

ネットのような空間と現実世界の境界線は薄くなりつつある。これは以前から言われてきたことなので、もの珍しい言論ではないだろう。ただ、ぼくが思うのは、その曖昧さを生み出しているのは、SNSでもなく、ダウンタウンでもない。ぼくら一般人なのだ、ということである。この前の衆院選で、それは顕著に現れた。立憲民主党はテレビやネットを「使った」のではない。「使わせた」のである。枝野幸男を見て、おのおのが自主的に動画を撮り、SNSで発信して盛り上がった。一般人が現実をネットに発信することにより、ブラウン管の中の人間との距離が近くなった。

従来のテレビの構造においては、盛り上げたいと思う「主催者側」が率先して宣伝活動を行ってきた。それに対し、最近では主催者側よりも、一般の観衆が、ー何か言われたわけでもなくー、積極的に宣伝のような行為をしている。その結果として、ネットと現実の境界線は曖昧になりつつある。一般論としては、主催者側/企画者が「ネットに近づいた」ために、その曖昧さが生まれたような言説が見られるが、そうではない。ぼくら一般人が、現実の出来事をネットに発信しすることによって、今の曖昧さが生まれている。すなわち、主催者が意図せずとも、現実を発信するのにネットを使ったことで、現実はより曖昧になっている、と思うのだ。

本館にも書いたが、元から低空飛行を続けていた意欲は地に落ちた。紛れもなく、アニメーションに興味がない状態と言い切っていいだろう。しばらく休もうかなとも思ったが、あまり休んでも仕方がないことは経験則で分かっている。元から虚弱で神経質だ、期待を背負える人間ではない。今までの賞賛も不相応なものだと今になっては思う、謙遜はしていない。

いまいち確たる情報を掴んでいないので、言及も微妙になります。ヤオが何をしたのか、製作に無許可で二次商法したのか、角川が何をしたのか。まずは、落ち着いて、これから先に公式アナウンスが出るのを待つべきです。

ただ、「たつきは全く悪くない!たつきを守れ」という主張には乗る気になりません。彼の最終ツイートを見るに、ファンを扇動したのは明らかです。その点については、子供じみているな、としか思えません。まあ、なにぶん情報が少なすぎる、そう思わざるをえないというのが本音です。カドカワに対して、良い印象はありませんが、彼らが何かをした、と決めつけるのは早計です。

ヤオヨロズとして、「何がベストか」を自分が考えたときに、「けもフレの権利をほぼ捨てる」ということです。そもそも、製作委員会方式をとっているのですから、出資者ありきであります。彼らの出資がなければ制作できません。ですから、商業二次の制作には製作委員会に許可をとる必要があります。彼らのお金で成り立っている商品です、こればかりは仕方がない。そういったしがらみは、製作委員会方式において、確実に起こりうることです。庵野秀明に習えば、「エヴァ」の権利問題をクリアにするために相当の労力を払ったでしょう。それぐらい、版権というのは面倒くさいものです。

話を戻しましょう。とにかく、彼らは素晴らしいアニメを作った。今、たくさんのファンがいる。そうであるならば、新作を作るべきです。それがヒットするかどうかは分かりませんが。で、同じ轍を踏まないように、完全に権利を握ればよい。つまり、自分たちで版権を新しく作ってしまえばいい。CFで募れば、いくらでもお金は集まると思います。ですが、これから後手後手に回ってしまうと、今いるたくさんのファンを失う可能性は高い。ですから、けもフレの版権については、残念ですが、諦めることがベストと思います。ヤオヨロズは知りませんが、たつき監督には信頼がある。今が最大のピークでしょう。ここを逃すと、もう「けもフレ」だけではなく、彼の監督作品を見れなくなってしまうと思います。それが最も憂慮すべきことではないでしょうか。茨の道とは思いますが、これ以外に僕は方法が思いつきません。利害関係者ならば、もっと入り交じった感情があるのでしょうね。僕としては、「たつき監督が新作を出す」とアナウンスを出し、そのままCFで資金を募るのが、現状を見るにベストと思います。


本題はけもフレではありません。けもフレの一連の流れや衆院解散を見るに、とてつもない不信感を感じました。カドカワや製作委員会の公式アナウンスを信じられないという人々の気持ちも何となく理解できます。おそらく、ここ4、5年は「閉塞感」といったものの方が強く感じられていたでしょうが、それは不信感を黙殺していたために、生じたものだった。閉塞は今ほぼありませんが、代わりに不信感が広がった。広まりつつあると思います。ということは、宗教がブームになるかもしれませんね。ああ、それがけもフレかもしれませんし、自民ネットサポーターズかもしれません。

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