ノⅠ了=Ⅰ(別館1)

雑多なテーマに対し雑に述べる→本館はGOMISTATION

カテゴリ: 雑記

ある特定の人々は、抱き枕を性的搾取といい、vtuberの台頭を女性のモデルロール化を助長すると難癖をつける。

そういったことに関する繰り返される意見を述べたいわけではないので、ご理解いただきたい。今回は、その原因を考えたいのだ。

前々から思っているが、彼らの多くは、愛されていない。なぜか、たかが人形に羨望してしまっているからだ。キズナアイという人形の存在を、抱き枕という物体に対し羨望を抱いてしまっている。つまり、性的な消費をされることも、その対象となりえることも少なく、現状の生活に不満がある。そうでなくては、人形に嫉妬することなどあり得ない。

女性のために、子どものために、そういった、それらしい大義名分を掲げる人はたくさんいる。難しい言葉を次から次へと使い、新しい概念を次から次へと生み出す。この活力はいったいどこから湧いてくるのか。いったい、彼らは、何が目的なのか。

たしかに、個人の嗜好が、公の場で他人を傷つけてしまっては言語道断である。しかし、 抱き枕は他人を傷つけているだろうか。キズナアイのノーベル賞解説は、果たして理系を志す女生徒に絶望を与えたのか。公共の福祉を害しないかぎり、個人の嗜好は、思想と同値であり、制限されるものではない。

ぼくが思うに、傷ついてしまったのは、それを主張する人々なのだ。人間である自分の性的な部分・存在よりも、人形のそれを優先されたことに傷ついてしまったのだ。だからこそ、自分に関係のないようなジャンルから、性的な批難対象を見つけ、概念や言葉を日々生み出すのだ。

誰しも自分が傷ついたから、という理由ではあるテーマについて主張したくない。このような繊細なテーマについてはなおさら。それゆえ、女性のため、子どものためというもっともらしい大義名分を用いるのだ。

ぼくは、この諸問題にかんして、人形に規制をかけることに意味はないと考えている。それよりも、愛されていない人々、人形に役割をとられたと感じる人の救済がもっとも優先されるからだ。逆説的だが、彼らを救うことが、この諸問題を解決する最善の方法におもう。断っておくが、ぼくは、彼らを皮肉ったりする気持ちはいっさいない。

究極にいってしまえば、どちらも自信がない、余裕がない。愛されるどころではないのかもしれない。その不自由さが攻撃性につながっていると考えている。

あ、いま急いでやるべきは、目に見えないサービスについての価格設定です。あとは、まだ決まっていない値段の設定。妥当かどうかは消費者が判断する。

生臭坊主を見るに、料金設定は明確に明瞭にした方がよい。もはや気持ちでサービスを続けても回り巡って誰も得をしない。

にしても、定義はどうだろう?
たとえば、エセコンサルなんかは、指導料の名目で10万単位のお金を取る。これはもっと細分化すべきだ。セミナー受講料、テキスト料、それらを全て明細していけば、利益確保しても10万単位にはならない。すなわち、大雑把な摘要で、値段をごまかしているのが現状である。お布施など、その典型だろう。

名目の細分化、これがきちんとサービスに価格をつけていく中で最も重要なものだろうなと考える。

http://iqyu3625.blog.jp/archives/20979500.html

あるていどは予測通りだったけれど、公式アナウンスを出さなかった(出してたのかな?)にも関わらずファンが離れなかったのは意外。そして、正直本当に売れるとは思ってなかった。今年は何本か出すんじゃないのかな、同じ方式で販売するでしょう。この熱狂ぶりを見るに、5分アニメであれ確実に売れる。

配信でも触れたけど、今たつき監督は何しても大丈夫だよ。犯罪しても擁護されて復帰できるレベル。ぶっちゃけ、それぐらい、けもフレファンはたつき信奉者が多い。

ヤオヨロの馬鹿pとは手を切った方がいいよ。権利関係がどこまでなのか不明だけど、今新作大ヒット。このプラスのイメージがある時点で、少なくとも表で政策に喧嘩をふっかけるような真似をして得することなんてないんだよね。

製作委員会でそれぞれ権利を分けてるけども、同意は必要だったはず。ヤオヨロが入ってるかどうかは忘れた。でも、公にする必要性は全くない。マイナスにしかならん。

ヤオヨロpがこれ以上なにかやってもマイナスにしかならない。ヤオヨロとしては金のなる木を手放したくないから、たつきの味方みたいな言動を取るんでしょう。まあ、それが最悪なんだけど。その結果、たつき監督までも不信感が集まるかもしれない。可能性は低いだろうけどね。そもそも、pが感情的になってツイッターで喧嘩をふっかける時点で論外。稚拙極まりないね。

これはちゃんと分けると、画面、音の2つに分かれる。それで、画面はカットそのものと、全体に分けられる。さいきんのアニメは多分ダレ場に相当するものが少ない、だから疲れる。

カットそのものも線が多くて撮影もいっぱい色もいっぱい。これだと休む暇がない。見てる側が考える時間を設けないと基本的には面白くならないとおもうな。ポプテは、カットそのもの、もっといえば、簡素なキャラデ、簡素な背景で、カットそのものは情報量が少ない。その代わりに、積み重ねられる全体のカットは多くて、音声も異なる。情報量がきちんとコントロールされているとおもうんね。

情報量は少なすぎてもとうぜんダメだと思うけど、さいきんのは多すぎる傾向な気がするよ。全てを高品質にしようとしていて、疲れる映像になってしまっている。クオリティは高いけど、全体はコントロールできてない状況じゃないかな。

「怒り」を嫌う人はとても多い。自分の家族は特にひどく、父親と母親の間で「怒り」が起きて何も解決しない。そのようなことが長く続いたので、とうとう「怒り」そのものを回避するようになった。それが以前の、調整役としての僕の役目であり、両親を助けるための手段であった。

5、6年ほど経ってようやく分かったが、これは決定的に間違いであった。「怒り」を回避するために、常に誰かが気を使っていなければならなかったのだから、神経質になるのも仕方がない。それで、上の二人は早々に、あの家を脱出し悠々自適な生活を送った。僕は学生身分であったので、脱出できずにいた。いや、それどころか、調整役としての自分を誇りに思っていたとさえ、今振り返ると思う。そして、ある日、破綻した。そして、「お互いに話し合え、怒りをぶつけろ」と親に提案した。両親はそれを了承せず離別した。

そして、いろいろな日々を過ごしてきたけれども、とかく兄弟は何があろうとも揉め事を良しとしなかった。「怒り」を封鎖し続けた。僕は、先のことがあったので、「共同体において、衝突は不可避である。『怒り』は避けるのではなく、最小限にすべき」という方針を提案したが、これも結果としては却下された。そう、彼らは、「怒りの封鎖」の恐ろしさを身をもって体験していないのである。溝ができて当然だ。結論だけ言えば、長女と両親とは絶縁状態にある。今年の09.10月には、主に家族問題において、辛い事が重なった。積もり重なっていた。まるで、自分の「怒り」は正しくないものと思えてしまうようになった。どのような怒りをもってしても、何にも対抗できないでいた。

転機はこの前であった。ああ、なるほど、と会話をしていて感じた。深く深く納得した、すべてが繋がった。結論から言おう、「怒り」を良しとしない人間は、それと同時に「繊細さ」をもたない。繊細さをもたない人間は、己を省みることもなく、他人に注意を払わない。よって、他人を慮らない、極めて利己主義な人間となる可能性が高い。あくまで可能性であるが。その一方で、「怒り」を良しとする人間は繊細さを持つ。注意しておくが、この「繊細さ」という言葉は、良い意味合いでは使っていない。ニュートラルである。すなわち、繊細さをもった人間が、神経質となるか、他人を慮らるか、管理が上手いか、分析的であるか、姑のようなネチッコイ性格であるかは、まさしく個人個人によって変わる。その発現の仕方は個人によって異なるだけであるが、繊細さを持ち合わせていない人物とは比べるまでもなく、利己主義になる可能性が低い。ただ、前述したとおり、「繊細さ」は個人の生き方によって、その分化が変わる。「繊細さ」は、まさしく諸刃の剣といえる。自分を傷つけてしまうこともあるし、自分や他人を助けることもできる。ストレスフルな生活を送るか、それとも、楽に生きることができるかは、「繊細さ」の使い方によって決まる。こういう風に、自分の中では整理がついた。


と、いろいろ理屈じみて書いてみたが、ぶっちゃけ、これは願いである。そうあって欲しい、という思い。

中高生の読解力にかんして、低下しているという記事がこの前出た。僕としては、載っていた問題を、一瞥して嘲笑するばかりであった。なぜか。読解力とは、ひっかけテストでは測れないからだ。その問題のどこでミスをおかしたか、を的確に見定めるためには、まず、語彙の知識の確認、短文の読解の確認、そこから文章/文脈の読解の確認へとつながっていく。

今のおおかたの読解力テストは、語彙の知識も関係なく、短文の読解を必要とせず、文脈のみばかりを読解させようとする。このような、ひっかけ悪文は読解力を的確には測定できない。論理性を重視した文章、合理的な結論を当てさせる問題などが、読解力の本質であると思っているが、巷の人にとっては、少し集中を欠いただけでミスってしまうような、ひっかけ問題が読解力を測定できると誤認しているようだ。

また、呆然としたのは、「それでは、分かりやすい文章を心がけ、そういった文章教育をするべきだ」とい批判がいっさいなかった点である。わかりにくく読解に時間がかかる、霞が関文章、役所の細々とした文章を読んで、いたずらに時間を無駄にすることが、果たして合理的であろうか。社会にとって、利益的であろうか。僕はまったくそう思わない。なんなら、敬語さえも、特別な場を除いて、使う必要すらないと思っている。それらは全て実利がなく、無駄である。

日本の国語教育は他国に比べて、非常にずさんである。と言うしかない。漢字テストを受けさせ、漢字の意味を覚えさせない。使用語彙と理解語彙の区別をしない。ひっかけ問題のような読解力テストを賞賛する。これでは、SNSやネットがいくら発達しようが、他人に対して、自分の意見を伝えることはままならないのではないか。不特定多数の他人と意見や議論を交わすことは、難しいままではないのか。そのように、ずっと苦しもうとする、まるで体育会系のシゴキのごとき、文化人のハラスメントには、呆れるしかない。

ぼくらにとって、ダウンタウンとは「テレビの存在」であったはずだ。いかに現実で撮影が行われているとはいえ、彼らのコントを見るのはブラウン管の中であった。ネットが普及するにつれ、ロケが終わると、SNSで芸人が発信し宣伝する。Amazonビデオでは、松本人志が企画した「ドキュメンタル」が、まるで、以前のテレビと同じように流れている。

ネットのような空間と現実世界の境界線は薄くなりつつある。これは以前から言われてきたことなので、もの珍しい言論ではないだろう。ただ、ぼくが思うのは、その曖昧さを生み出しているのは、SNSでもなく、ダウンタウンでもない。ぼくら一般人なのだ、ということである。この前の衆院選で、それは顕著に現れた。立憲民主党はテレビやネットを「使った」のではない。「使わせた」のである。枝野幸男を見て、おのおのが自主的に動画を撮り、SNSで発信して盛り上がった。一般人が現実をネットに発信することにより、ブラウン管の中の人間との距離が近くなった。

従来のテレビの構造においては、盛り上げたいと思う「主催者側」が率先して宣伝活動を行ってきた。それに対し、最近では主催者側よりも、一般の観衆が、ー何か言われたわけでもなくー、積極的に宣伝のような行為をしている。その結果として、ネットと現実の境界線は曖昧になりつつある。一般論としては、主催者側/企画者が「ネットに近づいた」ために、その曖昧さが生まれたような言説が見られるが、そうではない。ぼくら一般人が、現実の出来事をネットに発信しすることによって、今の曖昧さが生まれている。すなわち、主催者が意図せずとも、現実を発信するのにネットを使ったことで、現実はより曖昧になっている、と思うのだ。

本館にも書いたが、元から低空飛行を続けていた意欲は地に落ちた。紛れもなく、アニメーションに興味がない状態と言い切っていいだろう。しばらく休もうかなとも思ったが、あまり休んでも仕方がないことは経験則で分かっている。元から虚弱で神経質だ、期待を背負える人間ではない。今までの賞賛も不相応なものだと今になっては思う、謙遜はしていない。

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