千了=1(別館)

日々の徒然、雑多なテーマに対し雑に述べる→本館はGOMISTATION

カテゴリ: 雑記

中高生の読解力にかんして、低下しているという記事がこの前出た。僕としては、載っていた問題を、一瞥して嘲笑するばかりであった。なぜか。読解力とは、ひっかけテストでは測れないからだ。その問題のどこでミスをおかしたか、を的確に見定めるためには、まず、語彙の知識の確認、短文の読解の確認、そこから文章/文脈の読解の確認へとつながっていく。

今のおおかたの読解力テストは、語彙の知識も関係なく、短文の読解を必要とせず、文脈のみばかりを読解させようとする。このような、ひっかけ悪文は読解力を的確には測定できない。論理性を重視した文章、合理的な結論を当てさせる問題などが、読解力の本質であると思っているが、巷の人にとっては、少し集中を欠いただけでミスってしまうような、ひっかけ問題が読解力を測定できると誤認しているようだ。

また、呆然としたのは、「それでは、分かりやすい文章を心がけ、そういった文章教育をするべきだ」とい批判がいっさいなかった点である。わかりにくく読解に時間がかかる、霞が関文章、役所の細々とした文章を読んで、いたずらに時間を無駄にすることが、果たして合理的であろうか。社会にとって、利益的であろうか。僕はまったくそう思わない。なんなら、敬語さえも、特別な場を除いて、使う必要すらないと思っている。それらは全て実利がなく、無駄である。

日本の国語教育は他国に比べて、非常にずさんである。と言うしかない。漢字テストを受けさせ、漢字の意味を覚えさせない。使用語彙と理解語彙の区別をしない。ひっかけ問題のような読解力テストを賞賛する。これでは、SNSやネットがいくら発達しようが、他人に対して、自分の意見を伝えることはままならないのではないか。不特定多数の他人と意見や議論を交わすことは、難しいままではないのか。そのように、ずっと苦しもうとする、まるで体育会系のシゴキのごとき、文化人のハラスメントには、呆れるしかない。

ぼくらにとって、ダウンタウンとは「テレビの存在」であったはずだ。いかに現実で撮影が行われているとはいえ、彼らのコントを見るのはブラウン管の中であった。ネットが普及するにつれ、ロケが終わると、SNSで芸人が発信し宣伝する。Amazonビデオでは、松本人志が企画した「ドキュメンタル」が、まるで、以前のテレビと同じように流れている。

ネットのような空間と現実世界の境界線は薄くなりつつある。これは以前から言われてきたことなので、もの珍しい言論ではないだろう。ただ、ぼくが思うのは、その曖昧さを生み出しているのは、SNSでもなく、ダウンタウンでもない。ぼくら一般人なのだ、ということである。この前の衆院選で、それは顕著に現れた。立憲民主党はテレビやネットを「使った」のではない。「使わせた」のである。枝野幸男を見て、おのおのが自主的に動画を撮り、SNSで発信して盛り上がった。一般人が現実をネットに発信することにより、ブラウン管の中の人間との距離が近くなった。

従来のテレビの構造においては、盛り上げたいと思う「主催者側」が率先して宣伝活動を行ってきた。それに対し、最近では主催者側よりも、一般の観衆が、ー何か言われたわけでもなくー、積極的に宣伝のような行為をしている。その結果として、ネットと現実の境界線は曖昧になりつつある。一般論としては、主催者側/企画者が「ネットに近づいた」ために、その曖昧さが生まれたような言説が見られるが、そうではない。ぼくら一般人が、現実の出来事をネットに発信しすることによって、今の曖昧さが生まれている。すなわち、主催者が意図せずとも、現実を発信するのにネットを使ったことで、現実はより曖昧になっている、と思うのだ。

本館にも書いたが、元から低空飛行を続けていた意欲は地に落ちた。紛れもなく、アニメーションに興味がない状態と言い切っていいだろう。しばらく休もうかなとも思ったが、あまり休んでも仕方がないことは経験則で分かっている。元から虚弱で神経質だ、期待を背負える人間ではない。今までの賞賛も不相応なものだと今になっては思う、謙遜はしていない。

いまいち確たる情報を掴んでいないので、言及も微妙になります。ヤオが何をしたのか、製作に無許可で二次商法したのか、角川が何をしたのか。まずは、落ち着いて、これから先に公式アナウンスが出るのを待つべきです。

ただ、「たつきは全く悪くない!たつきを守れ」という主張には乗る気になりません。彼の最終ツイートを見るに、ファンを扇動したのは明らかです。その点については、子供じみているな、としか思えません。まあ、なにぶん情報が少なすぎる、そう思わざるをえないというのが本音です。カドカワに対して、良い印象はありませんが、彼らが何かをした、と決めつけるのは早計です。

ヤオヨロズとして、「何がベストか」を自分が考えたときに、「けもフレの権利をほぼ捨てる」ということです。そもそも、製作委員会方式をとっているのですから、出資者ありきであります。彼らの出資がなければ制作できません。ですから、商業二次の制作には製作委員会に許可をとる必要があります。彼らのお金で成り立っている商品です、こればかりは仕方がない。そういったしがらみは、製作委員会方式において、確実に起こりうることです。庵野秀明に習えば、「エヴァ」の権利問題をクリアにするために相当の労力を払ったでしょう。それぐらい、版権というのは面倒くさいものです。

話を戻しましょう。とにかく、彼らは素晴らしいアニメを作った。今、たくさんのファンがいる。そうであるならば、新作を作るべきです。それがヒットするかどうかは分かりませんが。で、同じ轍を踏まないように、完全に権利を握ればよい。つまり、自分たちで版権を新しく作ってしまえばいい。CFで募れば、いくらでもお金は集まると思います。ですが、これから後手後手に回ってしまうと、今いるたくさんのファンを失う可能性は高い。ですから、けもフレの版権については、残念ですが、諦めることがベストと思います。ヤオヨロズは知りませんが、たつき監督には信頼がある。今が最大のピークでしょう。ここを逃すと、もう「けもフレ」だけではなく、彼の監督作品を見れなくなってしまうと思います。それが最も憂慮すべきことではないでしょうか。茨の道とは思いますが、これ以外に僕は方法が思いつきません。利害関係者ならば、もっと入り交じった感情があるのでしょうね。僕としては、「たつき監督が新作を出す」とアナウンスを出し、そのままCFで資金を募るのが、現状を見るにベストと思います。


本題はけもフレではありません。けもフレの一連の流れや衆院解散を見るに、とてつもない不信感を感じました。カドカワや製作委員会の公式アナウンスを信じられないという人々の気持ちも何となく理解できます。おそらく、ここ4、5年は「閉塞感」といったものの方が強く感じられていたでしょうが、それは不信感を黙殺していたために、生じたものだった。閉塞は今ほぼありませんが、代わりに不信感が広がった。広まりつつあると思います。ということは、宗教がブームになるかもしれませんね。ああ、それがけもフレかもしれませんし、自民ネットサポーターズかもしれません。

「怒り」という感情は正しい。憤るということは人間に生まれた以上、いや、この世に生まれた以上、あらゆる生物が持つ原始的な感情だ。ただ、「怒り」に付きまとう、「どうしようもない感情」はそれとはまた違うものだ。「怒り」が瞬間的、スタート地点だとすれば、それは、あらゆる人に存在する。しかし、「どうしようもない感情」の処理によって、人々の「行為」は変化する。

変えられることは変えればいい。未来や、もしくは過去のことについて、不安や怒りが生じても、それはスタートであり、行為は考え方次第でいくらでも変わるのだ。究極に合理化すれば、「自分が変えられないことに対し、労力を払わない」ことが一つ。”晴れていれば”、”電車が遅れていなければ”などに憤り、ただただ怒りに振り回されても仕方がないのだ。雨の場合を想定し、電車が遅れても余裕をもって行動する、それが、おそらく進歩と呼ばれるものだろう。もう1つは、「労力に見合っただけの成果が得られそうにないことをしない」ということだ。ケチをつけられて裁判沙汰を起こしたとしよう。弁護士を雇い、何度も書類の整理と立証の確認を行い、突破したときに、自分にとって利益があるか、と考えたときに、なければ、しない方がよいのだ。ただ、ここは難しい。

ブラックな違法労働を告発した男性は、数年ほど費やし、自分の労働環境の酷さを訴えた。それは同時にさまざまな人に勇気を与えたのだ。彼にとって、利益は少ないが、社会的にとっては、とても有意義で利益は多い。一見すると、無駄な行為に見えることは、他者や、もしくは未来の自分に役に立つ場合がある。そういう点で、一概に、利益という基準では語ることができない。

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