ガワだけ、体面だけ取り繕えば、それなりに見えてしまう。ぼくはさいしょ、彼ら、Vの人たちが過度な「ロールプレイ」しているとおもいこんでいたんだけれど、そうではなくて、彼らは別に、最初から何かを演じようとする意図などいっさいないのだ。

なにかしらの設定はあれど、それを充足に演じることはむしろなく、その設定と、その中身との齟齬を取り繕う、どこかしら制服を着たイメージプレイをしている。そのズレを解消するわけでもなく、ときにはボロが出つつ、それを良しとする。なんだ、これはべつに、なにかの”ロール”を演じてはいないではないか。むしろ、設定はガワだけではないか。ロールを守らない方が良いではないか。

と考えていくと、やはり、これは老いの否定なのだ。老いるという現実はだれしも認めたくない。死に日々近づくということを肯定したくない。中身がたとえ、腐りに近い30代後半であれど、ガワさえ変えれば、誰しもがティーンになれる。幼稚園児にだってなれる。その老いの否定、いや老いを直視しないこと、それこそが、V周辺の本質であろうという推論に行き着いた。

老いを受け入れることは、死を肯定することに近い。醜く、くたびれて、朽ち果てていく自分を受け入れることだ。それに反するものであるから、これはいってしまえば、改造手術なのだ。日本という国が、まさしく老いを迎えている。そのことから、目を背けたいのだ。だから、日本でこそ、Vは流行った。流行るのには理由があったのだ。没落していく国を直視したくない、栄えていた国が、いままさに朽ち果てようと、腐り果てようとすることを見たくない。

その心がVの流行につながった。そう推測する。