なにがあっても、作品と現場は分けるべき(というか、ぼくはスタッフが亡くなろうが、その悲しみと、視聴は混同しない)だけれど、流石に京アニ事件はいまだかつてない悲惨な事件であったことは間違いないので、分けることは難しいのかもしれない。

ドライとか冷酷だとか、気取っている、そういったわけではなくて、ぼくは完全に作品とスタッフを切り離している。増尾さんのときは少しびっくりしたし悲しかったけれど、まあなんだ、増尾さんが参加していた作品を見る上で、ああ増尾さんが生きていればなあ、と思っても仕方がないのだ。という思いがある。庵野さんが死んでも同じとおもう。

松来さんなんて、今でもクー子や下セカのアンナが出てきたら、なんかゴタゴタ言うやついるでしょ。ぼくはあれ、マスコミや野次馬みたいなもんだと思って見てますよ。騒ぎたいだけなんだ彼らは。知っている逝去者を、センセーショナルに扱っているだけなんだよ。


キャラクターと声優が別個のものであると同時に、作品とスタッフは完全ではないが、切り離すことができる。切り離すことができないんだったら、RIPなんかする前に、そのスタッフの功績を調べ、分析し世に残すのだ。自分の言葉で、自分のできる方法で、彼らを残すのだ。遺族経験がある身から言えば、安っぽい追悼なんかされても遺族はちっとも嬉しくない。

本当にお世話になった、こんなことをしてくれた、あんなふうに接してくれた。尊敬する父が亡くなった後に、ぼくに届いた言葉は、そういった類のことで、形式的なお悔やみなんていっさい嬉しくなかったね。それが残ったファンの役目であると、ぼくは確信している。少なくとも、ぼくは、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの劇場版にあの事件を入れて見ることはしない。