べつにこれは「論理性のない人間が悪い」という主旨の話ではない。まず、結論から言う。興味のない物事の中において、どのようなものに、そしてどのように関心をもつか、というのは、ほぼ決まっている。

A)アジテーションされたもの
B)きわめて資料性の高そうな整理されたもの
C)多くの人々が反応したもの

Aは感情的なものだ。ここに知性はなく、論理も根拠も必要がない。いや、むしろ邪魔になると言ってしまってよかろう。Bについては、資料性の高さから「コンパクト(情報の摂取が速い)」な情報であると、同様にCについては、多くの人々が注目したことから「重要な」情報・トピック・流行であると僕らは認識する。この情報社会において、自分の守備範囲外のエントリーやコラムの選択はほとんど合理的に行われている。

現代の情報はほぼ無限にある。自分の思考で判断し選択しなければ、自分にとって有意義、もしくは必要な情報は得ることができない。そういう風に多くの人は思っているとぼくは考えている。人々は情報を選択する際に、合理的な判断を下しているとは言ったが、その内容が論理的であるかどうかはいっさい関係ない。つまり、<外部>から見て、「便利そう」、「面白そう」、「すぐに読めそう」なものだと判断している。言い切ってしまえば、内部の情報、まさしく<内容>は情報選択の際には、意外にもさして重要でないのだ。

内容がいくら論理的で正しく、根拠も揃っていたところで、選択され注目されるかには関係しない。重要なのは、「外から見て、便利そう・面白そうなもの」なのだ。であるからにして、多くの人々が読んだからといって、正しい情報であること、自分にとって有意義な情報であることを保証しない。

小さく小さく論理や根拠を重ねて書いても、べつに良い。それが日記であるならば。ブログは少なくとも、すべてのネットに公開されたもので、そのエントリーはだれかに読んで欲しいという気持ちが含まれている。論理性は非常に高いが、まったく選択されないエントリーと、論理性にいちぶ欠陥は見られるかもしれないが、多くの人に選択され、その物事について議論されるエントリー、どちらが有意義であるかはもはや明白だ。「名を捨てて実を取る」と、同じことだ。だれにも気付かれない大きなダイヤを探すのと、馬券について悩むのと、どちらを選択するかなど、言うまでもない。