不謹慎ということがひとつ日本を縛っている。人が亡くなった時に、その人について語らない方がいいし作品も今見ない方がよいみたいな風潮が作られている。

おそらくそれは便乗商法だのやいのやいの言ってきたから、その辺と矛盾しないために、不謹慎という概念を用いている。

不謹慎と態度は関係していて、
あんな凄惨なことがあったのに
ひどい事件だったのに
不愉快な自国ヘイトなのに
という風に、不謹慎を大義名分とするんだ。そうすると手出しができなくなる。そして、それ相応の態度を求められる。いまだったら喪に服してろ!だ。

不謹慎だから、適切でないから、というのを考えなしに言う人は、言い方悪いが、アニメよりも、アニメを見ている自分の態度がどうであるべきかを重視している。要するに、自分なわけ。アニメが先に来ないわけ。こういう人が多くなりすぎた。

木上益治が亡くなったことも、氷菓や京アニ作品が素晴らしいことも、作品それぞれの監督や作画の色を分析することは、すべてまったくまったく異なるわけなんだけれど、これに気付かない。一緒くたにしちゃってる。

だからさ、この前配信にきた人で、ぼくの、ある種京アニのアニメを見たり触れたりする機会になったなという発言をクズと捉えた人ってのは何も分かってないわけなのよ。ぜんぶ分けないといけない、ばっさりと、関係しちゃいけないわけ、人が死んだことと、作品を見たりその感想を書いたりすることは。

いつでも書いて見て楽しんでいいはずでしょ。そうじゃなかったら、とんでもない。いつからなら許されるんだろう。具体的に四十九日までとかあるの?ないとおもうんだよな。不謹慎っぽい雰囲気がなくなるまで我慢する感じじゃない?まあぼくは好き勝手に見て好き勝手に書くだけなんだけれど。

いまはもっぱら、暗黙的に、こういう態度、すなわち俺たち京アニファンの気持ちを汲み取って静かにしていろ!という風潮だよね。

こういう主張の人に伝えたいのは、それがどうであれ何の役にも立たない。故人になってしまった瞬間に考えることは、その人がどれだけどのような重要なしごとをしたかを伝える機会である、とぼくは思うけれど、これも言葉尻で揚げ足を取られるのだ。そんな不謹慎な態度、すなわちチャンスと言うな、をとるな!ってね。

凄惨な事件には間違いないけれど、チャレンジャー事故と京アニ放火は映像として何ら変わりはないよ。そこに気持ちを込めても弔いにはならないので。