他人から、賢く見られることに羨望し、期待し、欲求したことが、まさしく、ゼロ年代批評を統括する上で重要なポイントではないかと思う。しごく単純な事柄を、複雑な物言いやよく分からないワードによって、抽象的な事柄に変えてしまう。”いっけん”すると、とても賢い論文のように見えてしまう。自分の都合のいい論評に見合うように、サブカルチャーをコラージュアートのように切り貼りする。ぼくは、ゼロ年代批評をこのように捉えている。

宇野の言説については、たしか林先生のテレビ番組だったかな。「ウルトラマンは米ソ対立の構図だ」という、こじつけ論を言ってたなあという思い出しかない。彼らの言説には、論理や合理がない。いや正確にいえば、彼らの合理というのは、彼らの論評のためにしかない。東や宇野の言論というのは、はなから「自分の結論ありき」に作られたものであり、そのためにサブカルチャーにおける物語を引用している。としか思わない。孤立した事実と事実どうしを、自分の勝手な都合で結びつけている論評である。地獄みたいに、彼らのフォロワーはたくさんいます。はてなブログみれば分かるよね。地獄を煮詰めた感じだよね。

そもそも、サブカルチャーから社会・時代背景に言及するのは非常に難しい(あの岡田斗司夫だって積極的にはしないでしょ)。なぜかというと、著述家がそういう風に思い込んでしまえば、そういう風に断じてしまえば、それが成立してしまう危うさがあるからだ。根拠をもたない、こじつけは際限なく通じる。80年代の戦闘アニメの多さを、そのまま新冷戦/ソ連崩壊に典拠づけることだって可能なのだ。サブカルチャーにおける事実と、実際の社会における事実を、無理やり結びつけることは、非常に危うさをもつ。

たとえば、「ウルトラマン 米ソ対立」と調べたら下記のようなものが出てきました。
頭が痛くなるので、読むのはオススメしません。
・http://www.magazine9.jp/gundam/100811/
・http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3776/jidaiseihin.html


このようなサブカルチャー論評というのは、(ビジネス右翼とおなじく)サブカル言論ビジネスといえる。ぼくは、意見には(たとえ権威であれ)つねに疑惑的な態度でいないといけないと思う。だから、作家のインタビューなどまったく当てにしない。「どんな気持ちで(演出で)作りましたか?」とか本音で述べることなんて少ないでしょ。自分が必死にこねて粘土に、どんな気持ちを込めたかなんて当人でも分かんない場合があんのよ。それが無意識かつ当人の背景で、作家性と呼ばれるものなんだろうけどさ。作家性じたいを物語から追求するならまだしも、逆はダメだと思うよ。インタビューから、作家性を決めたり、物語の内容はこういった属性や性質を反映している、なんていうのは因果が逆になっている。それは明らかに論理矛盾でしょう。