岡山、というか山陽南部はきわめて排他的、もっと簡単に言うと「ノリを強制してくるきらい」がある。このノリ面白いやろ!とみんなが思ってると押し付けてくる。そのノリがまったく面白くないどころか、苦痛にまで感じると、苦笑いする他ない。ツイ作豚のノリ、というか「このノリがこの界隈にとっては当然だよ」という押し付けがましくて好かん。これは僕の育ちに関係があるのかもしれない。
2019年06月
暴力表現
暴力表現
1、ファンタジー的
:窓からすっとん(このすば1期ウィズの回)
:百トンハンマー
→コメディとわかる
2、たんこぶ・腫れ
:殴られてからヒリヒリ(このすば2期変態仮面の回、執事の回)
3、血ありの
:WORKING伊波さん
馴れ合いというかさ
インスタとかフェイスブックみたいな、「わたしたちってサイコーに面白いよね!」「うちらにしかそれ分からんやつwww」みたいなのが滲み出る投稿に嫌悪を感じる。そういうのが割と少ない、2chとかTwitterをやっているんだけど。なんでああいうノリをTwitterでも展開すんの。おまえらそういうの嫌なんじゃないの。そういうのに憧れてるのか?
欲の否定
欲の否定は自分たちそのもの、存在の否定と同じではないだろうか。
もしかしてだけど
黒田結花すごいと思っているのワイだけ・・・?
記事を消したらもったいない理由を述べる
ブログなんてのは、おおよそ暇人がやることで、まあやんなくてもいいんだけど、まあ楽しいからやっちゃうよね。自分の言葉が知らない人に、伝わって、言いたいことを感じてもらえる。それだけで面白いよね。とぼくは思う。
で、若かりし頃の、なんてことはない、アニメファンにとってはあたりまえかもしれない記事、とくだん何も述べてないような記事、自分を出しすぎて今見ると恥ずかしい記事、というのは存在する。けれど、消してはいけない。そのときそのときの不完全な自分が地続きとなって、今の自分を形成している。
であるならば、昔の記事の削除というのは、今の自分そのものの否定である。公に問題がない限り、もしくは個人的な問題がない限り、消さない方がいい。こうやって歩んできたんだなあ、と不完全な自分を、受け入れてあげるだけでよい。完璧な記事などないし、むしろ、昔の方がもっと純粋にかけていたり、気兼ねなく自分の思ったことを出せていてよかったなあと思うことまである。
それはそれで終わったこと。終わったことではなく、これからが大事だ。よく分からない迷走時期もあったし、これからもあるだろう。そういったときにヒントを与えてくれるのが昔の「不完全な」記事である。だからこそ、ブログの記事はよほどのなにかがない限り消さない方がいい。昔の記事は自分に勇気をくれるし、ヒントも与えてくれるし、アドバイスもくれる。
評価軸は2つで
好きか嫌いか(つまり好み)
すごいかすごくないか(つまり完成度合い)
後者だけの評価は、不可能である。人間にはそれぞれ好みがある。その主観を完全に除いて語ることは非常に困難だ。「嫌いだけれど、すごい」といった作品に正当な評価を与えることが重要なんだろうな。
田中宏紀記事/反省戦
説明することにあまりに重点を置きすぎてしまった感じ。理屈をきちんと、整合性をきちんと、とあるていどはいいのだけれど、そのていどが分からず、失敗してしまった。まあいい失敗だったとおもう。もう少し、興奮した印象をそのまま伝えられたら良かった。
・整合性は気にしない
・整っているかどうかなんかよりも、興奮度合いをそのまま
・興奮を伝えようとすると、相手にも興奮を与える
・ごちゃごちゃしたら、一つに絞る
・きれいにまとまらないときは無理にまとめない