IAKINGLY_UMA

馬、ゴシップ、その他生活モロモロ→本館はGOMISTATION

2019年04月

スタイルに大きな変化が現れていく。

大手などに顕著に見られる「講義」メインであるものは「実践」へと結びつかない。そもそも、授業・講義とはなにか。知らないことを教えてもらい理解し、実践できるようにしていく場所である。単純な解答板書などは授業ではない。予習をする場合、予習の部分で事前に問題の答え合わせを済ませた後に、事前には理解できなかった部分を理解・再現することが最重要である。

しかも、多くの問題を受験では蓄えておかなければならない。一般の高校や塾の演習量などは少なすぎて、どうしようもないのだ。なぜか。生徒の人数は40名と多く、さらに成績もバラバラだからである。これによって、無難な問題をただ解説するというスタイルが多く続いてきた。

結論から言えば、最強は少人数+個人指導である。少人数を歌う予備校は近年増えつつあるが、少人数の時代すら終わりに近づいて言える。とはいっても、個人指導は高価で生徒数も絞られすぎる。

15名前後のルームで、一人の講師が直接管理できるだけのルームであるべきだ。ここで重要なのは、講師が、という点だ。チューターなどを通すと伝聞されてしまい、面倒くさい。これからの塾講師は、ただ勉強を教えるのが上手いというだけではなく、受験制度そのものにも詳しくなくてはならないし、生徒一人一人がどのような性格であるか、といった細かいところまで把握していて当たり前になる。本来そうでなければならないのだ。

であるからにして、今これだけの塾講師が溢れているのは、単に勉強ができた、勉強を教えているフリが上手い、ほかに仕事がなくて仕方なく講師をしている、そういった講師が大勢内包されているからである。ほんとうの、本来の、講師とは「師」でなくてはならない。いろんな点で、モデリングの対象とならなければいけない。

そういった意味で、父は塾講師として天賦の才を持ち合わせていた。あのカリスマ性は中々並ぶものがいないだろう。徹底した演習、徹底した内容理解の確認、テキストの選択、どれをとってもストイックであったとおもう。いろんな側面を見て、人はとくに保護者は尊敬やリスペクトを持つ。

けもフレ2云々見てると、やはりこうだろうなあとおもう。
現場とか入れちゃいかんねん。

<NOTEから再掲>

アニメを評価するときは、きわめて極端な点数の付け方をしているのかもしれいない。優れたアニメとは「95点」ではなく、「100点」であり、オールタイム・ベストに入るような作品は「150点以上」となる。凡作と良作の間には、さほど差がなく、意識はしてないが「0点」になる。「まあまあだった」という作品に対して、70点くらいを与えたところで、それは意義があるだろうか。60~80点という点数を付けたところで、それは主観によるものであり客観的な数値にはもってこれていない。みなさんも経験あるように、「まあまあ楽しめた」というアニメを見返すこともなければ、1クールも経たないうちに、それらを忘れていることはないだろうか。それならば、等しく0点である。映像にいったいどれほどの要求をしているのだ、わがままだと言われそうだが、視聴者はつねに過大要求であるべきだとおもう。納得してはいけない。思わぬような技術で、演出で、ぼくらを興奮させてくれる。そういった可能性があるものに対して、納得をしてはいけないのだ。

そして、評価は完成画面のみだ。作者が人格者でないことと、完成画面の評価は交わってはならない。また現場は考慮すべきではない。これだけ苦労して作った、チャレンジ精神をもって挑んだ、現場は地獄のように忙しかった、それはそれで別に評価すべきことであって、作品の評価とは関係がない。むしろ、これらを含めた作品の評価は、クリエイターにとって侮辱的であるとさえ思う。現場を考慮するならば、また作者の人格も考慮しなくては合理的ではない。たとえば、「素晴らしい人格者が作った、そこそこのアニメ」に対して、どういった評価をくだせるのか。くだせないのだから、最初から別にして評価をくだせば良い。

ただま~帰ってきたぞ~
右往左往ブロマガも書きながら、どこかに一極集中したいなあ
そのうち競馬もこっちに書くことになるとおもう、ゆっくり統合だねえ

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