ある特定の人々は、抱き枕を性的搾取といい、vtuberの台頭を女性のモデルロール化を助長すると難癖をつける。
そういったことに関する繰り返される意見を述べたいわけではないので、ご理解いただきたい。今回は、その原因を考えたいのだ。
前々から思っているが、彼らの多くは、愛されていない。なぜか、たかが人形に羨望してしまっているからだ。キズナアイという人形の存在を、抱き枕という物体に対し羨望を抱いてしまっている。つまり、性的な消費をされることも、その対象となりえることも少なく、現状の生活に不満がある。そうでなくては、人形に嫉妬することなどあり得ない。
女性のために、子どものために、そういった、それらしい大義名分を掲げる人はたくさんいる。難しい言葉を次から次へと使い、新しい概念を次から次へと生み出す。この活力はいったいどこから湧いてくるのか。いったい、彼らは、何が目的なのか。
たしかに、個人の嗜好が、公の場で他人を傷つけてしまっては言語道断である。しかし、 抱き枕は他人を傷つけているだろうか。キズナアイのノーベル賞解説は、果たして理系を志す女生徒に絶望を与えたのか。公共の福祉を害しないかぎり、個人の嗜好は、思想と同値であり、制限されるものではない。
ぼくが思うに、傷ついてしまったのは、それを主張する人々なのだ。人間である自分の性的な部分・存在よりも、人形のそれを優先されたことに傷ついてしまったのだ。だからこそ、自分に関係のないようなジャンルから、性的な批難対象を見つけ、概念や言葉を日々生み出すのだ。
誰しも自分が傷ついたから、という理由ではあるテーマについて主張したくない。このような繊細なテーマについてはなおさら。それゆえ、女性のため、子どものためというもっともらしい大義名分を用いるのだ。
ぼくは、この諸問題にかんして、人形に規制をかけることに意味はないと考えている。それよりも、愛されていない人々、人形に役割をとられたと感じる人の救済がもっとも優先されるからだ。逆説的だが、彼らを救うことが、この諸問題を解決する最善の方法におもう。断っておくが、ぼくは、彼らを皮肉ったりする気持ちはいっさいない。
究極にいってしまえば、どちらも自信がない、余裕がない。愛されるどころではないのかもしれない。その不自由さが攻撃性につながっていると考えている。