ノⅠ了=Ⅰ(別館1)

雑多なテーマに対し雑に述べる→本館はGOMISTATION

2018年07月

地道にやるしかないんだろうけどねえ。誤情報が、意図的、恣意的なもの否かっていうのは、区別しにくい。本当の誤発信は、責められるべきではない。否定的な・ネガティブな情報は広がりやすく、残りやすい。いくら誤解を解こうとしても、困難である。ネガティブ・キャンペーンを思いついたやつ天才でしょ、この時代まで見据えていたんかな。

よりメディアが、ニュースが身近なものになって、誰しもが、多くの情報に触れられるようになった。ニュースを摂取しようと意識してなくても。ということは、拡散するメディア、キュレーションサイト、外部からのニュースで成り立っているようなメディアに対して、事実とひどく異なる情報を公開してしまった場合に罰則を課す。ぐらいしか思いつかないんだよね。一つ一つ責めてもイタチごっこでしょう。フェイクニュースについて、今もっとも責められるべきは、媒介者であり仲介者である、キュレーションサイトだよ。

どのコミュニティにせよ、人々それぞれの嗜好は存在し、好き嫌いがある。よって、対立・衝突・意見の違いはあってこそ当然、むしろ、なくては不健全と僕は考えている。小さい衝突の繰り返しによって、あるていど、相手方の意見にも耳をかせる(まあ、たしかに、うんざりするような人も中にはいるけれど)。のであって、排他することは明らかな間違いとおもう。

まったくもって、”正しさ”など必要でないにもかかわらず、そればかり追い続けるために、排他的になるきらいがあるなと最近は感じる。個々人の感想は、それだけで素晴らしいものだ。その人の背景からしか見えない、見方がある。権威にすがった、いっけん”正しそうなもの”は褒め称えられるべきではない。

しかし、なんだろうな、文字は解釈によって受け取り方が変わる。よりひどくなった。もはや意見は求められておらず、いや正確に言うと、意見は求められているがその中身が異なる。自分の知らない、素晴らしいアイテムを紹介してもらうことこそが、意見とみなされるようになった。それで、その、教養ぽくみえるものが持て囃されている。つまり、整理するならば、「それらしくみえるもの」は危うい。

おそらくコンプレックスであり、嫉妬であり、怒りである。

<ジャップ>という一種のネットスラングは、自嘲である。けして日本人を馬鹿にしているわけではない。伝統的な慣習をあざ笑い、無個性のロボット就活を異様と感じる。そういった思いがありながら、いざ、「Tシャツ一丁でテレビに出るディレクター」に対して、否定的な感情を抱いてしまう。ふだんは、合理性のないシステムを疎んじ、憤る。しかし、現実世界、社会生活において、その内的な気持ちに対抗することができず、自然に迎合してしまう自嘲的な態度をこそ、<ジャップ>と呼ぶのだ。さながら軍隊のような、まったく同じスーツの行進をあざ笑いながらも、大量のありに押し流されてしまう。同調圧力に負けた、というよりは、主体性がない自分自身のせいで折れてしまった。それが現状である。この自嘲を超えてこそ、自由な世界は待っている。

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