IAKINGLY_UMA

馬、ゴシップ、その他生活モロモロ→本館はGOMISTATION

2018年05月

事実と不実がある。その次に解釈のしかた、いやいや解釈とはとうてい呼べないような幼稚な曲解で、フェイクを生み出す。

フェイクニュースとは、そもそもの事実があるか、という段階と、事実はあるけれど曲解されている段階の2つに分けられる。

事実が起きた後の解釈が真実であり、その真実の価値が問われているのが現状である。

・クソでかい大げさなサムネイル
・過大、誇張
・クソどうでもいい内容

youtubeに広がる動画のほとんどはこんなんだよね。ビジネス絡むとこわいわ~

民進・大塚がここまでバカだと打つ手もなく、どうしようもないんじゃね。でも右派だから立憲にも合流できないし、そもそも代表にまでなってしまうと、他議員からは腫れ物に扱う感じだよなあ。前原ではなく、玉木代表なら民進右派にはまた違った未来があったと思うよ。

こうなると、引責辞任にこぎつけるわな。どのタイミングで解散総選挙かは知らんけど、そこで惨敗することはもう目に見えている。まさか第二自民になるわけでもあるまい。もしも、やったら軽蔑する。まああ、選挙で代表を務める党が大敗して責任取るでしょ建前は。非世襲だし無所属でも負けないよ。

となるのは、まず間違いなく、進撃の巨人である。この漫画は歴史に残ると思っている。見事なまでの構成で圧巻されている。で、僕は巨人の歴史的なところも好きだけど、22巻あたりのアルミンのセリフが最も好きだ。『こういう時のために、ぼくらは違っている』というセリフだ。お互いに助け合い、補助しあう。真の意味での互助の本質をついていると思う。26巻はいつだ!

次に、亜人を挙げる。12巻読んだ。ああもう、佐藤さんがかっこええ。これまでは佐藤さんにとって、SATでさえ、お遊びの存在であったけれど、自衛隊の物量作戦を見るに、ゲームとして楽しみつつも全く手を抜かず、ひたすらに相手を殺りくし続ける。自衛隊の隊長が、人間を捨ててかかる、とまで言い切ったのに、それでさえ及ばない。佐藤さんの底が見えない。

永井チームは、田中を解放後、監禁されていた亜人メンバーも解放する。永井は単独で式典会場に乗り込んだところでおわり。下村田中の亜人利用されましたコンビの和解?はこの終盤らしき局面で、大きな影響を及ぼす。

田中は、佐藤さんと最も長い時を過ごした亜人である。かれの行動原理は、身に染みているはずだ。これをひも解くのが永井圭であり、田中と再会後、『佐藤さんを倒す』何らかの方法を見つけるに違いない。すなわち、田中が持っている情報で、田中はさほど重要ではないと思っているものが聡明な永井圭によって、佐藤のウィークポイントとして導かれる、というのが今後の流れではないかと思う。

まったく関係ないが、これ本館にあげてもよいね。

亜人と進撃に共通するのは、人間によく似た別の存在である。00年代はざっと見るに、エヴァの影響以降、人間対人間の構造が多いように思う。反対に10年代では、人間対非人間の構図が多い。あー、こんな感じで適当に移民問題とか、イラク戦争とか、国際的な右傾化を背景に据えて語ってお金をもらえたら最高だね!それっぽいことはいくらでも言えるよね。

でも、やはり、本編の内容吟味から逃げて楽してはいけないとおもうんよ。しっかり吟味したうえで社会背景を語るのは、別に筋悪でもないよ。本編内容をしっかりと、明確に、詳細に解きほぐした上で、社会背景を据えたら良い。それができていない時点で、安易に社会背景をすえて、それっぽいことを言っても、論評は前進しない。だって、アニメや漫画の内容を軽んじていることになるからね。内容を踏まえないで、そこにつなげている時点で、あっ自分の結論ありきにサブカルチャーを引用したいクソだなっておもうもん。なんの話だったっけ?笑


ああ、とにかくこの2作品は10年代を代表する漫画です。他にもいろいろあるだろうけど、この2作品は30年後読んでも面白いとおもうから代表作となるとおもう。

作画に限らず、「見ればわかる」という建前では説明しきれなくなった。いや、「しのごの言わずに、見たほうがわかる」という例外も確かにあるのだけれど、世の8割方は、説明しないといけない。公文書改ざん問題は、きわめて「見ればわかる」と思うけれど、その異常性はイマイチ伝わらない。なぜか。こればかりは知識の欠如、などではなく、想像力の欠如、と思うけれど、まあその理由は置いとくとして、伝わっていない。ということは、「バカでも分かる説明が必要である」ということである。

緒方恵美の発言は、周回遅れといわざるをえない。「森友のゴミ水増しより国会運営費の方がかさむから、さっさと進めよう」というむちゃな理論である。水増し問題と国会運営は別問題であることから、説明を開始しないといけない。で、世の識者は諦めてはいけない。大衆は思ったよりも、政治に割ける時間が少ない。ジャーナリストはその問題の専門家として、情報を集めているから、「この程度は知っていてとうぜん」という段階からスタートすると、大衆と齟齬が生じる。「この程度も知らないのか」で、通してはいけない。

たとえば、アニメをほとんど知らない人に、原画と動画の区別を前提としてはいけない。大前提として、「たくさんの絵が動いている」くらいの点から始めなければ理解はされない。「見ればわかる」という考えで、randomsakugaを貼ってもあまり意味はない。言葉、テキストにしないと、人には伝わらないものがある。根拠をもって示して、その凄さが分かるときがある。


・極論でどんな人でも一言文句を付けられるようにする
・反論の余地を半分以上残す
・難しい言葉を使って、薀蓄を煽る
・資料画像を大量に用意し、自称情強にコスパを感じさせる
・アニメ化された他ジャンルをクソ丁寧に解説する
・元ネタを解説する、その際当時の薀蓄を追加すればなおよい
・クッソ適当にポエムで抽象的な論評をする


これだけです、さあみんなも受けよう!

野中正幸って本人が思っている以上に本田雄に近いよね

とはいいつつも、回避性や境界性の症例にはギクッとするところも多い。

以下引用は全てこちらのサイトから
https://h-navi.jp/column/article/35026371

配信で触れられることがあったので、この際しっかり確かめてみようかと検証。

そもそも「自己愛」とは、なにか。

自己愛とは自分を大切にできる能力のことをいいます。自己愛は少なからず誰にでもあるものです。自己愛は年齢を重ねるごとに成熟していくといわれています。
自己愛とは、語感から与えられるイメージ(「自分大好き」)とは異なり、「自分を肯定できる」「自分がこの世にとって必要な人間である」という意味を指すようだ。一般的には、年齢を重ねることで、成熟していく。

これを「自己愛の成熟」と呼び、「自己を十分に肯定し愛せる状態」となる。自己愛とは、変化するものだ。さまざまな体験や経験を経て、発達していく、心の成熟度合いである。それでは、自己愛に問題があるとはなんなのか。自己愛に問題があるのは、自己肯定の力、自分を認める力が、成熟していない状態だ。これによって、自己の肥大化もしくは、まったく逆の矮小化が起こる。

すなわち、「自分自身に対する肯定の大きさが異なっている」と言えばよいだろう。そのために、「自分は特別な人間である」はたまた「自分はまったくこの世に必要でない」といった、二つの方向が発生してしまう。自己に対するレンズが歪んでいる、という表現が正しいだろうか。


とはいいつつも、この類の発達障害は、エビデンスの不足を感じざるを得ない(論文も臨床も統計もなんもかんも足りない。サンプル不足)。あくまでも、精神病を細分化するために設けられたとみなすぐらいの方がよいのではないか。長らく、精神病の分類は、統合失調症とうつ病の二軸であったが、これでは解決できない。ということで、双極性障害、パニック障害、発達障害と分化していったように思う。

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