ノⅠ了=Ⅰ(別館1)

雑多なテーマに対し雑に述べる→本館はGOMISTATION

2017年08月

で、キャラクターについては、よく分からないままだが、垂れ流す。個人の開陳は、もっとも大事だ。僕がおそらく、キャラクターの中でもっとも興味を持っているパーツは、鼻と手である。

まったくの偏見であるが、少女漫画は、カクついた手が多い。カクついた手に魅力がある、その魅力を仔細に話すことはうまくいかない。印象論でしかない。リアルな手を見ても、それはキレイだとは思うけれど、自分の琴線に触れない。カクついた手は、何かを想起させるのだろう。幾何的にパターンがあるので、キレイという話ではない。リアルな手では達成しえない何かがあるのではないかと思う。

次に鼻だが、これはおそらく、髪の毛などとの対比だ。レディ&オールドメンを見る限り、鼻の鋭角さ、こわばった様子と、やわらかい髪の毛の様子。この対比構造により、鼻の鋭角さ、カクついた描写が、髪の毛や目や耳といった、曲線がもつ、柔らかさを引き立てている。

と考えていくと、人物造形とは、直線と曲線の対比、柔らかさと鋭さの対比によって、成り立っているのではないだろうか。久々に気持ちがいい仮定を導けた。

自分は、キャラクターの造形や、物語の類型はどのようなものが好きなのか、について不明点は多い。極めて、自分は、物語性の強いもの、ストーリーがひたすらに展開されていくものは苦手だと思っていたけれど、実は違うのではないか。それに興味を持とうとしていないだけで、望遠鏡で覗き込む範囲が違っているだけで、実は興味をもっとも抱いているのではないか。そのように思うことが増えた。

キャラクターの造形については、不明点が多い。兄貴からおすすめの漫画を買ってくるように頼まれた後、書店で眺めていると、どれもピンとこない。まっさらになんの情報も持たずに単行本を買うときなどほぼないから、何を基準に買うのかよく分からない。そこで、キャラクターの嗜好や、物語の嗜好が必要なのだろうけれど、それを持っていないので分からない。

悩んだ末に買ったのは、「レディ&オールドマン」という漫画であった。表紙の絵に惹かれた、ような気がした。ー『しかし、これは、サブカル女子が読むような漫画ではないか?』ー。そういう人と同じではないと否定したく買うのをやめようと思ったけれど、自分の直感を信じた。お話は、ゆったりと進んでいく。陰影もキレイに使われていて、時間が止まっている瞬間がある。

さきほど否定したかったことは、もっと正確にいえば、女子のような自分だ。ボーイズラブに興味はないと思うけれど、別に嫌いではない。美麗な男性同士の絡みというのは、世間の男性ほど嫌いではないのだ。断っておくが、ポリコレはまったく関与しない。そのような見栄は張っていない。素晴らしい絵柄だと思うのに、「このような絵柄を僕が好むのか?」という気持ちを、否定したかった。それが、明らかに間違っている、というのはわかっているのに。つまるところ、絵柄について、男女の好みがあり、そうなるべき、と思い込んでいる。もしくは、「他人と違う絵柄を選んで通ぶりたいのではないか?」という、変な気持ちが湧いたのかもしれない。どちらにせよ、思慮しても有意義ではない。

そうなってくると、やはり、他人や世間の”そうなるべき事”など、バイアスでしかないな。他人は否定するものでもなんでもなくて、ただの他人でしかないのだ。そういう傾向はあるんだなという程度のことでしかない。

話が逸れた。このような事を考えるのも、まあ、横道に逸れて、同じ結論に辿り着くとしても、ムダではないと思う。確認しないことには、納得しないことには、それを本当に受け入れることはできないから。けれど、何故この絵柄が好きなのかを追究した方がはるかに有意義なのは間違いない。


閑話休題。こう考えていくと、自分の価値観や嗜好というのは、思ったほど、はっきりしていない。エフェクト以外のものについて、これこそ自分の好みだ、などと言い張れるものは、まったくないのだ。サブカルに触れる時期が遅かったというのはあるにせよ、もう少し、自分の嗜好というのは勝手に明確になっていると思っていた。すなわち、自分の嗜好というのは、勝手に明確にはならないのだ。

思考以外の領域において勝手に明白になっていたところで、それに対し、自分自身が意識的にならないと、自分にとって、明確にはならない。つまり、「あなたはどのような漫画が好きですか?」と問われて、明瞭に答えることは可能にならないのだ。自分が、そのものごとに対し意識しない限り、どのような辛さがあったとしても、否定をしてはいけないのだ。自分に対して、ごまかしは意味がない。

調子に乗ったら失敗をしてしまった、軽んじていたら悲惨な事態を招いた。自己評価の低さが、どこに起因するものであるかは分からないが、バイアスをかけた評価は悪循環を招く。自己評価が高いことは、しばしば意識高いと揶揄され、日本人の生来の謙遜さにより、自己評価の低さについての警鐘は少ない。正しく評価できていないという点で、評価の高低は関係なくなる。

自己評価の低さは、自分の評価軸の基準を下げてしまう。目線を下げてしまうので、落下する。よって、他人はみな自分よりも明らかに優れているように見えてしまう。そこで、苦しみが起きる。もちろん、他人との比較などは、なるたけ避けた方がよいが、それにも限界はある。まず、自己評価を正当なものにすることが優先である。

つまり、昨日の自分を基準とするのだ。改善された部分を、少し大目に、評価する。今は自分を低い地点に評価を置いているのだから。悪かった点は、過大にならないように、評価する。どっちにも言えることは、それぞれを、他人事のように、データのように、処理することである。

12]
庵野作画
クロス光(十字光)+白コマがたくさん入る



14]
増尾作画
クロスフィルター+白コマ


06]

22]
増尾作画
十字光を重ねるように置いて、クロスフィルター



26]

15]

中野フラッシュを複数使ったもの
これはちょっと違うかな


とりあえず思い出せる限り

ほとんどは自分に陶酔してなきゃ面白くならないのよ。我に帰って、賢そうに振る舞うと途端に化けの皮が剥がれる。

結論から言えば、個人の、きわめて直感的な感想が必要だと思う。直感的とは、まさしく、自分が映像を見たときに、感じた気持ちそのままである。何か違和感があれば、他の人にとってはそうでなくとも、あなたにとっては違和なのだから、映像になにかが隠れている証拠なのだ。その違和を表明すれば、他の人が抱かなかった、もしくは、黙認してしまった違和に気付く。つまり、他の人にとっては、見方が一つ増えるのだ。これを繰り返していけば、映像の見方は、まあ有限ではあるけれど、多様になる。一つの見方を強制することは息苦しいので、多様性を排除する社会に将来性はまったくない。ゆえに滅ぶ。

自分とは違う意見であっても、受容することが大事なのだ。一定の論理や根拠がある意見を、安易に否定するのは、誠に愚かなことだ。それは視野を狭めてしまうだけであって、独りよがりである。このような意見が許せないとも思ってしまったことは、自分は何度もある。根拠がある意見に対し、理屈が通った意見に対し否定をすると、自分の視野は狭まり、まさしく暗中模索状態になる。だからこそ、肯定できない意見であっても、とりあえず受容してみることが重要ではないか、そう思う。

直感とは、おそらくこの世で最も信頼たる、自分のパートナーである。他人によるバイアスや、集団的な心理を仕入れてしまうと、途端にそれは脆くなってしまう。直感に自信がなくとも、それは、確実に、自分が感じたことであるのだ。感性とは誰かが肩代わりできるものではない。自分が信頼してあげる以外で、それを活かすことは不可能なのだ。感性とはなにか。表面的な思いとは異なった、心の底で生じた、些細な気持ち・違和感・疑問、それが感性だと思っている。それを黙殺せず受容することこそが、まさしく、直感的な感想につながると僕は考える。すなわち、最初に受容すべきものは、自分である。

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