千了=1(別館)

日々の徒然、雑多なテーマに対し雑に述べる→本館はGOMISTATION

2017年03月

であり、たびたびミスを重ねる。けれど、そこに、わずかでも希望がある。完全生命体という理想よりも、不安定で、不完全な、人の可能性にかけたい、そのように庵野秀明は25年前から言っている。

きっと、そうだ。情報は、整理されて、届く真空パックのもの、という認識だろう。便利だから整理してあげる、ママが増えすぎたのではないか。国民総マザコンである。

と名付けた、情報は彼らにとって、生きるための知恵、などではなく、その情報を知っているという事実に安堵するものだ。しかも、質が悪いのは、その情報は自分にとって、都合が良ければ、真実であろうと、嘘であろうと、べつだん構わないところだ。

いちいち、まとめブログや各ニュース系サイトを糾弾しても、もはやいたちごっこの段階は超えており、終わりのないモグラ叩きになってしまった。一つねつ造を解消する内に、100個のねつ造が現れる。なぜ、このようになったか。考えない、からと断定するのは、まあ、なんというか、曖昧だ。

僕は、主体性がないからだ、と思う。自分は主体性がない人間、と伝えた。一貫できる信念をもたない人間だ。主体性がないと、自分の判断や決定に、自信がもてない。ゆえに、情報に依存することになる。その情報を吟味すれば、良いかもしれないが、だいたいはしない。なぜか。怖いからだ。自分の無知さを剥がされたくなく、なんとなしに、今ならば「辻本が国有地問題の黒幕であった」というデマを信じることにより、「自分はその問題を分かっている」、と自分自身を納得させたい人がおおいのだ。

主体性はなぜ、なくなってしまったか。無知であること、不安であることを受け入れないからだ。自分自身には知識が足りない、そういったことを不安として認識する。よくわかる。僕もそうだ、ただ、その不安を、なにか、安易で手軽な、ねつ造された情報で解消するのは、タバコや酒と変わりない、一時しのぎである。いや、ねつ造された情報を享受しない点でいえば、タバコや酒の方が優位である。

そして、その主体性の欠如のすきに、不安のすきに、まとめブログや各ニュース系サイトというものが入り込み、侵食した。ぼくらは、自分で、いま、何の知識ももたず、iPhoneをもたず、ネットを見ずに、意思決定できるか。けものフレンズは大流行した。見ている人は、本当に好きなのか。周りに流されるがままに、そう言わざるをえない状況ではないのか。嫌いな人がいるのは、当たり前のことなのに、なぜ、全員が好きという前提で進んでいくのか。東朝鮮という揶揄は、お見事だとおもう。

このように考えると、「妄想代理人」はみごとに、まさに見事に、現状を予言したとはいえないか。今敏の奇才、おそるべし。恐ろしく見事なのは、天災が起きたあとも、日常には変化がありませんでした、という点である。シンゴジラ安田のような、「ああっこんなんありかよ」という声を上げそうだ。

さて、本題に戻ろう。僕には自信がない、そして不安である。ただ言えるのは、まだかろうじて自分で判断できる、ということだ。そして、そのようにして、なんとか生きていこう、ということだ。

を見られたくないのだ。配信でさえ、まだ、猫かぶりしている。いい子として認識されたいのだろう。それが、この上なく、自分にとって、気持ちが悪い。なんのプライドだ一体。どれだけ幼いんだ。

である。そうだ、それは分かっている。架空の自己を作って、自分の難儀さを正当化したいのだ。こんな文章で、客観視できているつもりはない。これでは意味がない。対処療法だ。 

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