千了=1(別館)

日々の徒然、雑多なテーマに対し雑に述べる→本館はGOMISTATION

2017年02月

あれもテンポいいよね。
「じゃあいくわよ~じゃんけんぽん!」→「なんでなのよ~」と、じゃんけん部分はオミットしただけでなく、負けた後のアクアの顔から始まる。

ここまで見えてくれば、「批判」もきちんとした理解ができるだろう。

すなわち、批判という行為の最大の意義とは、「良い部分と悪い部分を明確に区別して、言及すること」である。だからこそ、現実に即したときに、変・違和感があるような部分について言及したり考えたりすることは、揚げ足取りのような私的な非難などではなく、むしろ良い部分を明確に浮き彫りにするための行為である。悪い部分が分からないと、良い部分は理解できない。

悪い部分についても言及するのは、良い部分を浮き彫りにする、という真の要素があってこそだ。褒める、賞賛する、そういうことだけをしていると、批判はできない。なぜならば、悪い部分と良い部分は表裏一体であり、離れようがないからだ。提灯記事が増え、クリエイターにゴマすりをするような記事が増えてしまったのは、批判と反省の精神が失われてしまったからだ。ファンの正義が氾濫したことによって、暴力性を恐れてしまい、そうせざるを得なくなってしまったのだ。

具体例として、山本寛の「君の名は。」評は鋭い。
こういった批評を書きたい。

クリエイターに直接文句を言え、とは思わない。クリエイターと名前は付いているが、人間である。とうぜん、自分の作品が批判されれば、自分が否定されたように思う。さいきんアニメ雑誌でよく見られる、「実はこういう意図でやりました」という類の発現は、クリエイターが述べるならば良いと思う。言い訳として用いるならば最低であるが、伝わらなかった思いを発散するのは、彼らに権利がある。

ただ、そこを下手くそな編集者が持ち上げ、「汲み取れなかった自分たちに責任があり、クリエイターには責任がない」とするのは大変に良くないことと思う。クリエイターをあまりにも高尚なものとして扱いすぎるきらいがある。同じ人間であるならば、尊敬はあっても対等であるべきだ、と僕は思う。


衒学も、提灯も、そのようなくだらないものは必要はない。今、もっとも優先され、もっとも重要で、もっとも必要なのは、悪い部分の指摘に重きを置いた、批判である。

現実に即したとき、おかしい点が存在するのは分かったけども、どうしてそれを批判した方がいいのか。良いところを見つけるべきではないか、という反論もあるだろう。

良いところは、批判の中に含まれる。現実に即しておかしい点ではなく、むしろ、敷衍した時に、鮮やかなまでに、現実よりも現実らしいという事態があることも多々ある。それは悪いところと対の関係である。だから、悪いところを指摘するに留まらず、素晴らしく出来がいい、唸るようなシーンもおなじく批判する。批判とは、悪いところだけではなく、良い点も取り上げる。すなわち、それらの区別を行うのだ。

もう一度、きちんと考えた方がよい

批判とは、単純に、自分の嗜好に合わないことを非難することではない。一般に敷衍した時に、そのシーンは現実に耐えうるか。すなわち、「一見違和感はないが、改めて見ると(現実に即すると)、明らかにおかしい」という類のことに対して言及する。これが批判である。

きちんと病院いく。くしゃみ止まらん。頓服飲んだら、カフェインで動悸が走っちゃうし、どうにもならん。

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