2017年02月28日 批判とは何か3 ここまで見えてくれば、「批判」もきちんとした理解ができるだろう。すなわち、批判という行為の最大の意義とは、「良い部分と悪い部分を明確に区別して、言及すること」である。だからこそ、現実に即したときに、変・違和感があるような部分について言及したり考えたりすることは、揚げ足取りのような私的な非難などではなく、むしろ良い部分を明確に浮き彫りにするための行為である。悪い部分が分からないと、良い部分は理解できない。悪い部分についても言及するのは、良い部分を浮き彫りにする、という真の要素があってこそだ。褒める、賞賛する、そういうことだけをしていると、批判はできない。なぜならば、悪い部分と良い部分は表裏一体であり、離れようがないからだ。提灯記事が増え、クリエイターにゴマすりをするような記事が増えてしまったのは、批判と反省の精神が失われてしまったからだ。ファンの正義が氾濫したことによって、暴力性を恐れてしまい、そうせざるを得なくなってしまったのだ。具体例として、山本寛の「君の名は。」評は鋭い。こういった批評を書きたい。クリエイターに直接文句を言え、とは思わない。クリエイターと名前は付いているが、人間である。とうぜん、自分の作品が批判されれば、自分が否定されたように思う。さいきんアニメ雑誌でよく見られる、「実はこういう意図でやりました」という類の発現は、クリエイターが述べるならば良いと思う。言い訳として用いるならば最低であるが、伝わらなかった思いを発散するのは、彼らに権利がある。ただ、そこを下手くそな編集者が持ち上げ、「汲み取れなかった自分たちに責任があり、クリエイターには責任がない」とするのは大変に良くないことと思う。クリエイターをあまりにも高尚なものとして扱いすぎるきらいがある。同じ人間であるならば、尊敬はあっても対等であるべきだ、と僕は思う。衒学も、提灯も、そのようなくだらないものは必要はない。今、もっとも優先され、もっとも重要で、もっとも必要なのは、悪い部分の指摘に重きを置いた、批判である。
2017年02月28日 批判とは何か2 現実に即したとき、おかしい点が存在するのは分かったけども、どうしてそれを批判した方がいいのか。良いところを見つけるべきではないか、という反論もあるだろう。 良いところは、批判の中に含まれる。現実に即しておかしい点ではなく、むしろ、敷衍した時に、鮮やかなまでに、現実よりも現実らしいという事態があることも多々ある。それは悪いところと対の関係である。だから、悪いところを指摘するに留まらず、素晴らしく出来がいい、唸るようなシーンもおなじく批判する。批判とは、悪いところだけではなく、良い点も取り上げる。すなわち、それらの区別を行うのだ。
2017年02月28日 批判とは何か もう一度、きちんと考えた方がよい 批判とは、単純に、自分の嗜好に合わないことを非難することではない。一般に敷衍した時に、そのシーンは現実に耐えうるか。すなわち、「一見違和感はないが、改めて見ると(現実に即すると)、明らかにおかしい」という類のことに対して言及する。これが批判である。
2017年02月28日 龍ハイ本館で記事出す なあなあで済ますの良くないよホント。若手育成だったら何でもやっていいわけじゃない。ブランコの行動に納得が全くできない。ハッタリ芸だよ、榎戸の。 何かあるかもしれない、風呂敷を広げる。あんな行動原理は、ありえないとおもう。あと細かいディテールがなんでこれ演出通したんだっていうもんばかり。コメントいただきましたが、提灯記事じゃ、発展はありません。
2017年02月27日 見本市ってなんだったんだろう? マッキー竜ハイのデキレだったのかな。社外の人の作品は発展させようとか思わなかったのかな。いろいろな作品は世に出たけども、それで終わってしまった。「自由な創作環境を」と庵野はいったけど、それとお金を結び付けないと意味なくないか。それが庵野とカワンゴ、あとはカラーの緒方Pの仕事ではなかったか。けっきょく採用された、というか、お金に結びついたのは、マッキーの龍の歯医者でした。他の作品は、その瞬間の熱だけで朽ちていく。それは良いことなのか。もったいなくないか。折角いろいろな作品ができたのに、長編化されたのは、あれだけ。いや、もしかしたら、企画が進んでいるのかもしれないけれど。 [追記] せめて新しいビジネスモデルの片鱗でも見せてほしかった。そう思う。未だに、旧時代的な「徹夜で頑張りました」というのが美談になっているのは、相当に良くない。