「作画崩壊」とは、もはや一種のネタ用語になりつつある。批判的な意味合いにとどまらず、キャラのデフォルメ(FXで有り金溶かした人の顔とか)を形容したりもする。本来的な意味としては、「作画が崩れている(動きが固い、リアルでない…etc;多義語だ)ので、ダメだね」というものだろうけど、今はもっと柔軟である。

すなわち、作画崩壊というワードをめぐって、作画ファンとライトなアニメファンの間では断絶が起こっている。作画ファンにとって、作画崩壊とは、田中宏紀やうつのみやさとるを侮辱的に扱った、「タブーな言葉」である一方、ライトファンにとっては「キャベツ事件」に代表されるように、ひとつのネタのように、いろいろな意味を含んだ軽い単語として扱っている。ライトファンがこの言葉を使うときは、「ちょっとまた作画崩れてるかもwつぶやこw」みたいな、比較的にかるい態度であるが、作画ファンにとっては、もっと深い態度で使うような(いや、そもそも使わない)単語である。

いまさら、「作画崩壊」という言葉の意味を作画ファンが持つイメージに寄せるのは非常に困難、いや不可能である。いったん根付いた言葉のイメージを変えるのは至難の技であり、果てしない労力がかかる。しかも変えたところで、作画へのコアな認識や、本質的な部分はすこしも揺るがない。

では、どうしたらいいか。作画への敷居の高さをなくし、もうすこし人口を増やすためにはどうすべきか。という問題に直面したとき、作画本来の持つ、楽しさを、媒体にかかわらず伝えるべきである。砂場で遊ぶとき、スコップは「土を掘るため」のものとすぐ分かるが、ギギンガフォルトというよく分からない道具があったとき、それをどのように用いて遊べばいいかは分からないだろう。であるならば、一緒に砂場で遊ぶときに、ギギンガフォルトくんの使い方や楽しみ方を教えてあげればいいだけのことである。少しだけ使うのが、とっつきにくいかもしれないが、優しく、丁寧に、そして知識に偏向せずに、教えてあげれば、きっとギギンガフォルトくんを使って砂場で遊ぶ子も増えていくはずである。