さて、「新海誠は童貞」だの「学生時代に良い青春を送っていないだの」、侮辱に当たると言っても過言ではない批評めいたモノがネットでは散乱しております。まず最初に、極めて個人的な部分(観念、思想領域)にまで入り込み、批判を行う姿勢はナンセンスです。

映像は、原則として、その”映像そのもの単体”で批評されるべきであります。歴史的な背景、文化的な背景を必要とされる映像だと、とうぜんそういったことも加味する必要は出てきますが、それ以外の映画において、制作者個人の”極めて個人的な”観念を加味する必要はほぼありません。

故・やなせたかしのような、戦争体験から生まれた「空腹がもっともよくない」という思想は、『アンパンマン』という作品を別角度から見ることもできます。ただ、この場合は、作品批評というよりは、やなせたかし本人に対しての論評が色濃く出ます。すなわち、クリエイターの生い立ちや体験は、批評においては、あくまで”補強材”のようなものであり、大黒柱にはなりえません。しかし、『なぜアンパンマンが誕生したのか?』といった点は気になるところです。

200億を叩き出した人物の生い立ちなどについて知りたいというのは、この例と同じく自然な好奇心だと思います。新海監督の若い頃の写真を見て、「うわ~髪の毛染めてたときもあったんや~意外」とか、そういうのは自然です。しかし、新海誠の人柄や個人的な観念は、映像の批評に使うべきではありません。「宮﨑駿は左翼だ!共産主義者だ!だから、『風立ちぬ』みたいな映画ができた」というのは演繹的でしょう。いわば、結論ありきで展開されています。これでは広がりに欠けてしまい、映画の感想は似通ったものになってしまいますし、面白みに欠けるように感じます。


「新海誠は暗い青春時代を送った(不確定な推測)、だから『君の名は。』が生まれた」などといった因果関係の破綻は、批評としてあるまじき行為、と思います。百歩譲って、逆だったらまだ理解はできます。「『君の名は。』といった良い映画には~な要素がある、しかるに新海誠はこういう学生生活を送った、こういう人柄であるだろう」という文脈ならば、最も重要な映像から抽出して考慮されているので、因果は成立します。

ただ、こういった事をしても、「新海誠はこういう人生を送ってきた、こういう人柄だ、こういう観念だ」 といった、元の映像にはなんら関係のない結論しか出てきません。ですから、作品批評の観点においては、まったく意味がありません。前述のやなせたかしも含め、「クリエイター論」について語りたいのであれば、有効な手段かもしれませんが、映像の批評・論評の際にはあまり意味を感じません。


批評するのであれば、「『君の名は。』には~な要素がある、しかるに、新海誠はーなことを表現したかったのではないか。このシーンには、こういった意味があるのではないのか」というのが、作品批評ではないかと個人的には思います。誤解なきように言っておきますが、「新海誠やその作品を非難するな」ということではありません。「制作者の極めて個人的な観念を、作品批評に結びつけるのは良くない」ということです。

映画分析・批評の詳細については、「Film Analysis 映画分析入門」(マイケル・ライアン+メリッサ・レノス=著、田畑暁生=訳)が柔軟な分析方法を紹介してくれています。



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さて、人々は新海誠に限らず、クリエイターを「宮﨑駿はロリコン」 「庵野はセカイ系のはしり」とさまざまに、一言で形容してきました。なぜ人を性質で形容したがるのか。それは、もっとも手軽に「映像や作家について分かったフリができるから」です。

ある映画について、「今までには無い感じ」「みんなが褒めている」などの要素があったとしましょう。ある人は、その映画の良さが理解できません。映像の意味を考える気もありません(当然、ここまでは自由です)。そこで、「分かったフリをするため」に、まるで枕詞のように、人を一つの性質で形容してしまうのです。金型に鉄を流し込むように、人間に性質を押し付けるのです。


「新海誠の作品は童貞のそれだ」「庵野はセカイ系だ」「富野は」「押井は」と枠に押し込んでしまうのです。既存の枠組みにカテゴライズし、それが出来ないものについては何らかの性質や言葉を押し付ける。そして、満足します。「この映画はこういうことだ。分かったぞ」と。分類が目的のはずのカテゴライズはいつのまにか、映像を理解し自己を満足させるための手段にすり替わっていたようです。

もちろんカテゴライズを否定するつもりはありませんが、クリエイターを一つの言葉で形容してしまうと、作品について、それ以上見出だせることはありません。そこでストップです。映画の楽しみ方は千差万別ですが、批評を行うときには、「自分が感じたこと」を思ったとおりに書いた方が多様性が生まれ、広がりに繋がります。

また、「分からない」と言うべきではないという風潮は間違いです。片淵監督の「マイマイ新子と千年の魔法」を先日見ましたが、ドコが良いのかはよく分からなかった。みんながカレーを好んで食べるわけでもありません、単純な嗜好の違いです。ただ、配信で「マイマイ見たけど、よう分からんかったわ~」と話をしていると、「意外と残酷な作品やで」と他の人が「マイマイ」の解釈をしてくれました。分からなければ、他の人の解釈を聞けばいいだけのことです。「人生はいろいろ大変なんやっていうことなんかもなあ」と少し、ほんのすこし、その映像の持つ意味を考えるだけの価値は映画にはあると思います。

映画を完全に理解しきる必要はどこにもありません。「分かったフリ」をする必要もありません。見栄を張って、映画やクリエイターを一つの性質で形容する必要も、何かのカテゴリーに押し込む必要も全くとしてありません。必要なのは、まず楽しむことであり、その上余力があるならば、その映画が何を示そうとしたか、このシーンはどのような発想の元思いついたのか、そういった意味をわずかばかりでも考えることです。クリエイターや消費者といった関係にかかわらず、人ひとりが持つ人生の長い歳月を、一つの侮辱的な言葉で形容すべきではないと思います。