どのコミュニティにせよ、人々それぞれの嗜好は存在し、好き嫌いがある。よって、対立・衝突・意見の違いはあってこそ当然、むしろ、なくては不健全と僕は考えている。小さい衝突の繰り返しによって、あるていど、相手方の意見にも耳をかせる(まあ、たしかに、うんざりするような人も中にはいるけれど)。のであって、排他することは明らかな間違いとおもう。
まったくもって、”正しさ”など必要でないにもかかわらず、そればかり追い続けるために、排他的になるきらいがあるなと最近は感じる。個々人の感想は、それだけで素晴らしいものだ。その人の背景からしか見えない、見方がある。権威にすがった、いっけん”正しそうなもの”は褒め称えられるべきではない。
しかし、なんだろうな、文字は解釈によって受け取り方が変わる。よりひどくなった。もはや意見は求められておらず、いや正確に言うと、意見は求められているがその中身が異なる。自分の知らない、素晴らしいアイテムを紹介してもらうことこそが、意見とみなされるようになった。それで、その、教養ぽくみえるものが持て囃されている。つまり、整理するならば、「それらしくみえるもの」は危うい。
まったくもって、”正しさ”など必要でないにもかかわらず、そればかり追い続けるために、排他的になるきらいがあるなと最近は感じる。個々人の感想は、それだけで素晴らしいものだ。その人の背景からしか見えない、見方がある。権威にすがった、いっけん”正しそうなもの”は褒め称えられるべきではない。
しかし、なんだろうな、文字は解釈によって受け取り方が変わる。よりひどくなった。もはや意見は求められておらず、いや正確に言うと、意見は求められているがその中身が異なる。自分の知らない、素晴らしいアイテムを紹介してもらうことこそが、意見とみなされるようになった。それで、その、教養ぽくみえるものが持て囃されている。つまり、整理するならば、「それらしくみえるもの」は危うい。