千了=1(別館)

日々の徒然、雑多なテーマに対し雑に述べる→本館はGOMISTATION

作画崩壊というワードについて

「作画崩壊」とは、もはや一種のネタ用語になりつつある。批判的な意味合いにとどまらず、キャラのデフォルメ(FXで有り金溶かした人の顔とか)を形容したりもする。本来的な意味としては、「作画が崩れている(動きが固い、リアルでない…etc;多義語だ)ので、ダメだね」というものだろうけど、今はもっと柔軟である。

すなわち、作画崩壊というワードをめぐって、作画ファンとライトなアニメファンの間では断絶が起こっている。作画ファンにとって、作画崩壊とは、田中宏紀やうつのみやさとるを侮辱的に扱った、「タブーな言葉」である一方、ライトファンにとっては「キャベツ事件」に代表されるように、ひとつのネタのように、いろいろな意味を含んだ軽い単語として扱っている。ライトファンがこの言葉を使うときは、「ちょっとまた作画崩れてるかもwつぶやこw」みたいな、比較的にかるい態度であるが、作画ファンにとっては、もっと深い態度で使うような(いや、そもそも使わない)単語である。

いまさら、「作画崩壊」という言葉の意味を作画ファンが持つイメージに寄せるのは非常に困難、いや不可能である。いったん根付いた言葉のイメージを変えるのは至難の技であり、果てしない労力がかかる。しかも変えたところで、作画へのコアな認識や、本質的な部分はすこしも揺るがない。

では、どうしたらいいか。作画への敷居の高さをなくし、もうすこし人口を増やすためにはどうすべきか。という問題に直面したとき、作画本来の持つ、楽しさを、媒体にかかわらず伝えるべきである。砂場で遊ぶとき、スコップは「土を掘るため」のものとすぐ分かるが、ギギンガフォルトというよく分からない道具があったとき、それをどのように用いて遊べばいいかは分からないだろう。であるならば、一緒に砂場で遊ぶときに、ギギンガフォルトくんの使い方や楽しみ方を教えてあげればいいだけのことである。少しだけ使うのが、とっつきにくいかもしれないが、優しく、丁寧に、そして知識に偏向せずに、教えてあげれば、きっとギギンガフォルトくんを使って砂場で遊ぶ子も増えていくはずである。
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絵本の件ラスト

著作者にはどんな権利がある?

中には、「西野は脚本と絵コンテしか書いてない!絵は書いてないから、西野は仕事してない(=西野に著作権者たる価値なし)」とトンデモ理論をかます人がいたんだけど、絵コンテと脚本も立派な仕事なんだよねえ。この辺は、憎しみのあまり、先行してしまったという感じで。

エンドクレジットがネットではオミットされた件もそう。33人もスタッフがいれば、著作権の扱いは煩雑になる。著作権が発生するとき、著作者人格権が発生する。この人格権は、簡潔にいえば「著作権者の名誉を守るもの」だ。公開するかを決める「公表権」、タイトルや中身を変えないでねという「同一性保持権」、俺の名前は出してもいいけど、ペンネームでお願いねという「氏名表示権」の3つによって構成される。

そんで、著作権はあまりの権利の多さに、「権利の束」と言われたりする。複製したり、展示したり、上映したり、二次的な著作物にオッケーサインを出したり、たくさんの権利を持っているので、こう呼ばれる。今回のケースでどういった契約になっているか定かではないが、仮に共同著作権者の場合にも、実務的に「著作者人格権」は行使しないよう(もしくは放棄を)依頼される。理由は簡単、作業が煩雑になるからだ。展示する際も、頒布する際も、いちいち30名の承諾を得る必要がある。

で、今回の場合には、 そもそも共同著作物とはなっていないだろう。理由は同じである、煩雑になるからだ。だから、西野が著作権者であり、スタッフは一時的な契約(外注)だろう。これについてが、外野がとやかく言う資格はない。西野はブログで報酬を払ったと記載しているし、共同著作物にしたいのであれば、最初の契約時に申し出るはずだ。もちろん、これらは憶測の域を出ない。

憎しみのあまり、事実の認識を見誤ることは多々あるが、 今回は著作権に対する認識の甘さ(調べ無さ)が多く見えた。そのくせ、西野が少し間違えて、ツイッターの画像を引用やら、無断転載すると、ここぞというばかりに非難する。これがダブルスタンダードでなくて何なのだ?自分たちの認識の甘さは棚に上げて、非難するのは筋が通らないのではないだろうか。

絵コンテや脚本にも、クリエイティブさは必要だし、作業も多くの苦労がある。何もわら半紙に適当に書いて、成立するものではない。今回の件から垣間見えたのは、実作業ばかりを重んじ高尚なものとして扱い、脚本や絵コンテといった設計図に当たる部分を「下に見ている」という、に人々の偏見と無知であった。
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エフェクトをメインに据える画面

は少なくなった気がする。シーンにもよるけど。

例を挙げるとキリがないのだけれど、

例えば、「小林メイドラゴン」02話Bパートは、キャラクターの戦闘が中心のシーンなので、エフェクトが脇役になるのは仕方ない。それにしても、もう少し、エフェクトにも写実性(表現する意味)が欲しい。もっと言えば、「画面のエフェクトに意味」が欲しい。ガルパンのエフェクトには、強く意味を感じるけれど、幼女戦記やコバドラにはそれがないとおもう。すなわち、取ってつけたような、まあ戦闘シーンだし入れとくか、みたいな感じがする。だから、画面が良く見えないんだと思う。「そんなもん最初から、このシーンには求められてない」と言われたら、それまでだけど。

ああいうのは全力でやるから、良いんすよ。全力でやらんかったら、ごっこになってしまう。ごっこになると、いっきに映像に没入できなくなる。
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片隅と3月のライオンのキャラ顔の異常さ

いや、あのキャラデザってやばくね?

時間の都合でちらっとしか見れてないんだけど、あのキャラ顔って漫画じゃん。漫画はアニメで動いてるってちょっとすごいと思うんだけど、あんま触れられねえなあと思って書いてる。3月のライオンのほうは、東のエデンと見比べれば分かる通り、羽海野チカのデザインを完全にアニメーションに載せている。感覚的なので、抽象的な文言になってしまうが、ふつうはもうちょっと気を遣って立体的にするはず。

なぜかというと、アニメには空間があって、漫画よりもそれは大きいと思うから。うーむ、抽象的だ…片隅の方も同じで、平面的な顔を浮かないように、コントロールしたのは、松原秀典さすがである。どこかのインタビューで見たけど、片淵監督から、「もう少し下手くそに書いてくれ」と言われたんだよね。これが本質的、そうちょっと下手くそっぽく書かないとあかん。あの辺のバランスは相当に、難しいし、コントロールするのは並大抵のことではなかったはず。あれやばいと思うけど、言語化できへんわ。
 
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ボツ原稿:新海誠は一言で形容されるべきか?

さて、「新海誠は童貞」だの「学生時代に良い青春を送っていないだの」、侮辱に当たると言っても過言ではない批評めいたモノがネットでは散乱しております。まず最初に、極めて個人的な部分(観念、思想領域)にまで入り込み、批判を行う姿勢はナンセンスです。

映像は、原則として、その”映像そのもの単体”で批評されるべきであります。歴史的な背景、文化的な背景を必要とされる映像だと、とうぜんそういったことも加味する必要は出てきますが、それ以外の映画において、制作者個人の”極めて個人的な”観念を加味する必要はほぼありません。

故・やなせたかしのような、戦争体験から生まれた「空腹がもっともよくない」という思想は、『アンパンマン』という作品を別角度から見ることもできます。ただ、この場合は、作品批評というよりは、やなせたかし本人に対しての論評が色濃く出ます。すなわち、クリエイターの生い立ちや体験は、批評においては、あくまで”補強材”のようなものであり、大黒柱にはなりえません。しかし、『なぜアンパンマンが誕生したのか?』といった点は気になるところです。

200億を叩き出した人物の生い立ちなどについて知りたいというのは、この例と同じく自然な好奇心だと思います。新海監督の若い頃の写真を見て、「うわ~髪の毛染めてたときもあったんや~意外」とか、そういうのは自然です。しかし、新海誠の人柄や個人的な観念は、映像の批評に使うべきではありません。「宮﨑駿は左翼だ!共産主義者だ!だから、『風立ちぬ』みたいな映画ができた」というのは演繹的でしょう。いわば、結論ありきで展開されています。これでは広がりに欠けてしまい、映画の感想は似通ったものになってしまいますし、面白みに欠けるように感じます。


「新海誠は暗い青春時代を送った(不確定な推測)、だから『君の名は。』が生まれた」などといった因果関係の破綻は、批評としてあるまじき行為、と思います。百歩譲って、逆だったらまだ理解はできます。「『君の名は。』といった良い映画には~な要素がある、しかるに新海誠はこういう学生生活を送った、こういう人柄であるだろう」という文脈ならば、最も重要な映像から抽出して考慮されているので、因果は成立します。

ただ、こういった事をしても、「新海誠はこういう人生を送ってきた、こういう人柄だ、こういう観念だ」 といった、元の映像にはなんら関係のない結論しか出てきません。ですから、作品批評の観点においては、まったく意味がありません。前述のやなせたかしも含め、「クリエイター論」について語りたいのであれば、有効な手段かもしれませんが、映像の批評・論評の際にはあまり意味を感じません。


批評するのであれば、「『君の名は。』には~な要素がある、しかるに、新海誠はーなことを表現したかったのではないか。このシーンには、こういった意味があるのではないのか」というのが、作品批評ではないかと個人的には思います。誤解なきように言っておきますが、「新海誠やその作品を非難するな」ということではありません。「制作者の極めて個人的な観念を、作品批評に結びつけるのは良くない」ということです。

映画分析・批評の詳細については、「Film Analysis 映画分析入門」(マイケル・ライアン+メリッサ・レノス=著、田畑暁生=訳)が柔軟な分析方法を紹介してくれています。



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さて、人々は新海誠に限らず、クリエイターを「宮﨑駿はロリコン」 「庵野はセカイ系のはしり」とさまざまに、一言で形容してきました。なぜ人を性質で形容したがるのか。それは、もっとも手軽に「映像や作家について分かったフリができるから」です。

ある映画について、「今までには無い感じ」「みんなが褒めている」などの要素があったとしましょう。ある人は、その映画の良さが理解できません。映像の意味を考える気もありません(当然、ここまでは自由です)。そこで、「分かったフリをするため」に、まるで枕詞のように、人を一つの性質で形容してしまうのです。金型に鉄を流し込むように、人間に性質を押し付けるのです。


「新海誠の作品は童貞のそれだ」「庵野はセカイ系だ」「富野は」「押井は」と枠に押し込んでしまうのです。既存の枠組みにカテゴライズし、それが出来ないものについては何らかの性質や言葉を押し付ける。そして、満足します。「この映画はこういうことだ。分かったぞ」と。分類が目的のはずのカテゴライズはいつのまにか、映像を理解し自己を満足させるための手段にすり替わっていたようです。

もちろんカテゴライズを否定するつもりはありませんが、クリエイターを一つの言葉で形容してしまうと、作品について、それ以上見出だせることはありません。そこでストップです。映画の楽しみ方は千差万別ですが、批評を行うときには、「自分が感じたこと」を思ったとおりに書いた方が多様性が生まれ、広がりに繋がります。

また、「分からない」と言うべきではないという風潮は間違いです。片淵監督の「マイマイ新子と千年の魔法」を先日見ましたが、ドコが良いのかはよく分からなかった。みんながカレーを好んで食べるわけでもありません、単純な嗜好の違いです。ただ、配信で「マイマイ見たけど、よう分からんかったわ~」と話をしていると、「意外と残酷な作品やで」と他の人が「マイマイ」の解釈をしてくれました。分からなければ、他の人の解釈を聞けばいいだけのことです。「人生はいろいろ大変なんやっていうことなんかもなあ」と少し、ほんのすこし、その映像の持つ意味を考えるだけの価値は映画にはあると思います。

映画を完全に理解しきる必要はどこにもありません。「分かったフリ」をする必要もありません。見栄を張って、映画やクリエイターを一つの性質で形容する必要も、何かのカテゴリーに押し込む必要も全くとしてありません。必要なのは、まず楽しむことであり、その上余力があるならば、その映画が何を示そうとしたか、このシーンはどのような発想の元思いついたのか、そういった意味をわずかばかりでも考えることです。クリエイターや消費者といった関係にかかわらず、人ひとりが持つ人生の長い歳月を、一つの侮辱的な言葉で形容すべきではないと思います。
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あ、そうだ、湯浅新作について

おれ湯浅あんま好きじゃねえんだけど、今のSNSだと言い出せないわ。片隅と同じで、(ただの嗜好の違いなのに)発言したら、すごく叩かれそう。公開前なのに、既に「名作」扱いされているのかは、少し理解ができないところである。権威主義的じゃね?
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センセーショナル

「キンコン西野の絵本」に限らず、最近はこぞってみんなが一つのテーマを話題にすることが多い。はてブやTwitterなんかは特にそうとおもうのだけれど、これこそまさに、ぼくたちを縛ってきた「他人と同じでなければ」という症候群ではないか。他人と話題を共有し、井戸端会議をする。ある種、アニメや漫画の話題や内容と同じく、センセーショナルなニュースは他人との潤滑油、会話の材料といえる。で、ぼくはこういった画一的な話題はあまり好きではない。

だからこそ、いろいろなニュースや話題がある2chを未だによく見るのだろうけど。今は、東芝の不良債権と、横浜中学生150万恐喝問題などは、安易に、センセーショナルに、消費されるべきではない。事実上の身売りを行っている東芝は、半導体事業も売り払い、今やもう、完全に死に体である。粉飾決算を行ったにもかかわらず、刑事罰に問われないのは、もっぱらに議論・糾弾されるべきであって、ニュースの優劣というよりも、重要度や優先度はこちらの方が高い。

キンコン西野はセンセーショナルに消費されて良い、と思っている。すなわち、「継続的に議論を続けるか」、それとも「いったんのお茶会での話題に終わるか」に集約される。横浜の恐喝問題などは、もはや、その一例の惨状に嘆くばかりではなく、根本からの見直しが必要である。同じく、東芝の問題からは、技術者の待遇改善、といったテーマも見えてくるだろう。


ここ最近は、これ以外にも大きなニュースがたくさんあって、
・教師の過労問題(週80時間超え)
・慰安婦像の建設と大使一時帰国
・貧困大学生の窃盗(奨学金絡み)
・電通の労働調査

少し後ろを振り返ると、
・一橋大学院生のカミングアウトと自殺
・実質賃金の低下
・デフレ脱却できず

大雑把にはこんな感じにある。どれも重要度は高い(けども取捨選択は行わないといけない)。で、「西野なんて扱うな」といったわけではなく、もうちょっと継続して、取捨を行い、議論を行っていくべきではないかと思うわけ。とうぜん、イチローが3000本打ったら嬉しいし、それはみんなで共有したらいいと思うけど、ずっとイチローについて語るわけもなく(岩隈なんて16勝してもニュースにもならねえ)。ただ、「取捨と継続」というのは、今のニュースや言論を取り巻く環境において、もっとも大事なテーマである。

「わからない」という意見が多い原因は、おそらく、ニュースに対しての重要度や優先度を考えず、のべつまくなしに話題に触り、センセーショナルな話題にばかり、こぞって集って発信を行う。ということに集約されていると考える。もうちょっと、捨てるべきではないか。
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やりたい記事

・柿田爆発
・村木爆発/後藤雅巳爆発(割と似てるのでひとまとめに)
・青山浩行爆発
・宮沢康紀の煙(大平・湯浅系もまとめて)
・佐々木政勝爆発(企画配信もやりたい)
・橋本敬史爆発(ちょっと真面目に整理)

これぐらいで、エフェクト作画の主な部分は網羅できるんじゃないのかなあ。庵野、増尾、本谷、とかは既に取り上げてる。吉成弟とかは、もうみんな知ってるだろうし、むしろ取り上げられてない人をやりたい。あとは戸倉さんとかかなあ。
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本ブログの方の雑記そうとう消した

すかすかじゃねえか2016年。やっぱ雑記っちゅうのは、近況ていどに留めた方がええの
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キンコン西野、電車広告を見て、世知辛い

キンコン西野の行為は単純にビジネスモデルの変更、すなわち、ウインドウの増加である。接触機会(ウインドウ)が多くなれば、より人々が購買する可能性は高くなるだろう。といった基本的な考えである。これについては、ただのビジネスモデルの変更であり、別に是非は問われない。アジテート的な口調や、これまでの行いから判断されて、批判されているのだろう。よく意味は分からない。

電車広告の方は、オンナが股を閉めているかどうか、といったもので、すなわち「女性に対し女性らしさを押し付けてはいないか」「そもそも、迷惑なのは、大股を広げる男性ではないか(なぜそれは批判されない!?)」というジェンダー的な問題に結びついた。こっちも、よく意味は分からない。

どちらも、自分の持っていきたい方向へと問題を誘導しているだけだ。電車広告は、とうぜん、電車内のマナーを守ってね、というだけのものであるし、キンコン西野は(言葉遣いの悪さはあれど、それはネット住民も同じことである)ビジネスモデルの変更を大げさに言っただけである。

これを「ジェンダー問題」 や「お金をクリエイターが得ることができなくなる」という風に、拡大解釈を行い、結びつけるのは、最近見られるようになった、エゴイストな問題提起行動だろう。要するに、極めて単純化してしまえば、韓国のことが気になって仕方がない、ネトウヨと同じである。 西野のことが嫌いであっても、問題点や本質をすげ替えてはいけないし、いくら女性差別が健全化されないからといって、関係のない問題をジェンダーに結びつけ、社会を萎縮させてはいけない。

ことの本質は、もっと深いところにあるのであり、このような表面的な事物にばかり、センセーショナルに飛びつき、煽り、叩きあうことは、有効な解決手段とはなりえないだろう。
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