黒田結花すごいと思っているのワイだけ・・・?
記事を消したらもったいない理由を述べる
ブログなんてのは、おおよそ暇人がやることで、まあやんなくてもいいんだけど、まあ楽しいからやっちゃうよね。自分の言葉が知らない人に、伝わって、言いたいことを感じてもらえる。それだけで面白いよね。とぼくは思う。
で、若かりし頃の、なんてことはない、アニメファンにとってはあたりまえかもしれない記事、とくだん何も述べてないような記事、自分を出しすぎて今見ると恥ずかしい記事、というのは存在する。けれど、消してはいけない。そのときそのときの不完全な自分が地続きとなって、今の自分を形成している。
であるならば、昔の記事の削除というのは、今の自分そのものの否定である。公に問題がない限り、もしくは個人的な問題がない限り、消さない方がいい。こうやって歩んできたんだなあ、と不完全な自分を、受け入れてあげるだけでよい。完璧な記事などないし、むしろ、昔の方がもっと純粋にかけていたり、気兼ねなく自分の思ったことを出せていてよかったなあと思うことまである。
それはそれで終わったこと。終わったことではなく、これからが大事だ。よく分からない迷走時期もあったし、これからもあるだろう。そういったときにヒントを与えてくれるのが昔の「不完全な」記事である。だからこそ、ブログの記事はよほどのなにかがない限り消さない方がいい。昔の記事は自分に勇気をくれるし、ヒントも与えてくれるし、アドバイスもくれる。
評価軸は2つで
好きか嫌いか(つまり好み)
すごいかすごくないか(つまり完成度合い)
後者だけの評価は、不可能である。人間にはそれぞれ好みがある。その主観を完全に除いて語ることは非常に困難だ。「嫌いだけれど、すごい」といった作品に正当な評価を与えることが重要なんだろうな。
田中宏紀記事/反省戦
説明することにあまりに重点を置きすぎてしまった感じ。理屈をきちんと、整合性をきちんと、とあるていどはいいのだけれど、そのていどが分からず、失敗してしまった。まあいい失敗だったとおもう。もう少し、興奮した印象をそのまま伝えられたら良かった。
・整合性は気にしない
・整っているかどうかなんかよりも、興奮度合いをそのまま
・興奮を伝えようとすると、相手にも興奮を与える
・ごちゃごちゃしたら、一つに絞る
・きれいにまとまらないときは無理にまとめない
これもうアニメ化決まってますね
紀ノ上晟一@uepeji⚡️ &vquot;不良っぽい子がひとめぼれした話&vquot;
2018/12/23 20:21:24
https://t.co/I6EfpTr1Fy
2020年冬アニメ、2021年一発目ぐらいで出てくるはず
語ることばはなんでもよいよい
自分の言葉で、
それなりの納得さがあれば、
どんな語り方でもいいと思うんだけどな
そんなに語り方の文法とか作法って重要じゃないとおもうよ。中身でしょ。
聞きたいんだけど、/選民思想?
「これすごい…」って画像やGIF、動画貼って、なんの具体的な説明もないのはなんなんだろうね。なんかあれ選民思想くせえよな。「おれは理解しているけど、この凄さ分からないだろうなあイッパンピーポーには・・・w」みたいな。昔、あの人(まっつね別体)がやってたわ、木上ビー玉作画の件で。
ヲチ勢として/仲直りとして
この前、Twitter作画界隈で喧嘩(しんざんものとななまる?;文豪ストレイドッグス3期OPの作画について)があったらしいけど、ちゃんとツイートは残しておけ。喧嘩の後は消すな。おれの配信でちゃんとネタに判断できねえだろ。
てか殴り合えよな。お互いに。リプライ飛ばさずに、空リプして味方から援護射撃(いいねRT)待って精神的勝利をするのはどっちもモヤモヤせんのんけ。Twitterも消しにくいような仕様にすればいいんだろうけど、それはそれで仕事増えるだろうしイヤだろうねえ。
あと仲直りもしにくくなるゾ。まあ、昔おれも若手アニメーター(笑)からやられたけど、僕からはひとつも消してないですねえ。かれら3人の名誉を守ってあげるため、配信でしか言わん。消すなら書くな、書いたら消すな。
これからの予備校・塾
スタイルに大きな変化が現れていく。
大手などに顕著に見られる「講義」メインであるものは「実践」へと結びつかない。そもそも、授業・講義とはなにか。知らないことを教えてもらい理解し、実践できるようにしていく場所である。単純な解答板書などは授業ではない。予習をする場合、予習の部分で事前に問題の答え合わせを済ませた後に、事前には理解できなかった部分を理解・再現することが最重要である。
しかも、多くの問題を受験では蓄えておかなければならない。一般の高校や塾の演習量などは少なすぎて、どうしようもないのだ。なぜか。生徒の人数は40名と多く、さらに成績もバラバラだからである。これによって、無難な問題をただ解説するというスタイルが多く続いてきた。
結論から言えば、最強は少人数+個人指導である。少人数を歌う予備校は近年増えつつあるが、少人数の時代すら終わりに近づいて言える。とはいっても、個人指導は高価で生徒数も絞られすぎる。
15名前後のルームで、一人の講師が直接管理できるだけのルームであるべきだ。ここで重要なのは、講師が、という点だ。チューターなどを通すと伝聞されてしまい、面倒くさい。これからの塾講師は、ただ勉強を教えるのが上手いというだけではなく、受験制度そのものにも詳しくなくてはならないし、生徒一人一人がどのような性格であるか、といった細かいところまで把握していて当たり前になる。本来そうでなければならないのだ。
であるからにして、今これだけの塾講師が溢れているのは、単に勉強ができた、勉強を教えているフリが上手い、ほかに仕事がなくて仕方なく講師をしている、そういった講師が大勢内包されているからである。ほんとうの、本来の、講師とは「師」でなくてはならない。いろんな点で、モデリングの対象とならなければいけない。
そういった意味で、父は塾講師として天賦の才を持ち合わせていた。あのカリスマ性は中々並ぶものがいないだろう。徹底した演習、徹底した内容理解の確認、テキストの選択、どれをとってもストイックであったとおもう。いろんな側面を見て、人はとくに保護者は尊敬やリスペクトを持つ。
アニメの評価について、やはり
けもフレ2云々見てると、やはりこうだろうなあとおもう。
現場とか入れちゃいかんねん。
<NOTEから再掲>
アニメを評価するときは、きわめて極端な点数の付け方をしているのかもしれいない。優れたアニメとは「95点」ではなく、「100点」であり、オールタイム・ベストに入るような作品は「150点以上」となる。凡作と良作の間には、さほど差がなく、意識はしてないが「0点」になる。「まあまあだった」という作品に対して、70点くらいを与えたところで、それは意義があるだろうか。60~80点という点数を付けたところで、それは主観によるものであり客観的な数値にはもってこれていない。みなさんも経験あるように、「まあまあ楽しめた」というアニメを見返すこともなければ、1クールも経たないうちに、それらを忘れていることはないだろうか。それならば、等しく0点である。映像にいったいどれほどの要求をしているのだ、わがままだと言われそうだが、視聴者はつねに過大要求であるべきだとおもう。納得してはいけない。思わぬような技術で、演出で、ぼくらを興奮させてくれる。そういった可能性があるものに対して、納得をしてはいけないのだ。
そして、評価は完成画面のみだ。作者が人格者でないことと、完成画面の評価は交わってはならない。また現場は考慮すべきではない。これだけ苦労して作った、チャレンジ精神をもって挑んだ、現場は地獄のように忙しかった、それはそれで別に評価すべきことであって、作品の評価とは関係がない。むしろ、これらを含めた作品の評価は、クリエイターにとって侮辱的であるとさえ思う。現場を考慮するならば、また作者の人格も考慮しなくては合理的ではない。たとえば、「素晴らしい人格者が作った、そこそこのアニメ」に対して、どういった評価をくだせるのか。くだせないのだから、最初から別にして評価をくだせば良い。