千了=1(別館)

日々の徒然、雑多なテーマに対し雑に述べる→本館はGOMISTATION

「bookは1枚でも成立する」とちょうさで述べました。印象として、密着マルチといえば、何枚もbookをスライドしている感じがする。で、密着マルチは、奥行き表現のために運動視差を再現するための技法ですから、動かすbookが多いに越したことはない。

そのために、「複数のbookがないと密着マルチといえないのではないのか?」という疑問へと繋がったんだと思う。まあ、それだけ。密着マルチっていう名前もそうだけど、密着マルチと言われて、どういう画面を思い浮かべるのかは、人によって異なるのかもしれない。つまり、ある言葉に対する認識が共通のものではないとも思う。この辺は気になるね。

僕は、たとえば、COPPELION4話Aパート序盤であるとか、カバネリの1話であるとか、雲の密着マルチが一番印象的で好き。奥行以外のことも表現できたりするのかなあ、密着マルチって。

増尾昭一に対する反応をみていたが、悪評どこ吹く風で、ああ、本当にいい人だったんだろうなあと思う。人柄の良さ、人となりが透けて見えてくるようだった。増尾昭一とまではいかないまでも、なるべく真っ直ぐ生きていきたい。

ちょっと質問したことをまとめておく、答えてもらった方々ありがとうございます。あとは、いろいろなサイトをめぐりました。意味バラケスギィ!


密着マルチ

「密着」はアナログ時代のカメラによる名残として統一されていました。ここは問題ない共通見解です。問題はマルチの方。

1、マルチをマルチプレーンではなく、複数の意味で捉え、複数のbookを多段引きすること
2、マルチはマルチプレーンによるものであり、bookは複数でなくとも良い

ここで、そもそも表現したかったことから考えたい。マルチプレーンっていうどでかいカメラ装置を使って表現したかったことは、「遠近感」「奥行」です。そのために、なぜマルチプレーンが必要だったかは、「ある素材を異なる速度で動かせることができる」からです。通常のカメラだと、一つの速度しか生みだせない。画面は一つの速度しか持ちません。マルチプレーン・カメラだと、たとえば、「雲」だけに、BGや画面全体とは異なる、速度をもたすことができる。だから、画期的な発明だったのではと思います。

こういった事から考えていくと、重要なのは、「異なる速度で、スライドさせて『遠近感』を出すこと」ですよね。つまり、BGとは異なるスピードでスライドさせれば、密着マルチは1枚でも成立する。ちょっと具体例が思いつかないけれど、バランみたいな草原のbookが手前にあって、それをスライドさせる画面でも、BGと逆方向にすれば、たとえ1つでも遠近感や奥行は出る。

だから、別にbookは1つでも成立する。複数である必要はない。なんか僕が正解を思いついたような書き方ですが、他の人から答えを聞いた上で書いてる。整理しただけ。


<参考サイト>
http://www.da-tools.com/junk/cn25/camStand.html
マルチプレーン Wikipedia

ちょいちょい別館で3行リハビリしてから、再開する。いやしかし、けっこうパッキリと価値観が変わりつつあるかもしれない。昨年もすごかったけれど、今年もなんとか、少しではあるが、前進している。ムダなことに時間を割くのはいい加減にしようと思った。他人など気にしても仕方ない。いきなりは無理だろうけどね、ゆっくりとね。

SNSの流行により、クリエイターと身近になった。僕は何かあかんのよな、まず緊張するからリプライとか飛ばしたくないし、いや、話をしてみたいとは思うよ。けれど、もし万一、少しでも私情が入ってしまったら、そのクリエイターに対して、客観的に語ることは不可能になってしまうと思うんよね。相手と交わることで得た、自分の思いや先入観が入ってしまう。そういうことで、オフ会とかも無理だわな。ネットとリアルは、やはり自分にとっては、断絶している。そこら辺の割り切れなさは、柔軟性が欠けているなと思う。

まあ、ひと言でいえば、シャイなんだろうけど。昔からそう。ちょっとしたことで、みんなの前で褒められたりするのは苦手。

落ち着き次第、また更新よてい。ここ数日は殺到していたので、放置していたが、だいぶ落ち着いてきた。

新作アニメは3話あたりから見るとたぶんいい

3話から見る
:どうしてこうなっているのか意味不明
→ある程度没入できる(野球中継を途中から見る理論)
→キャラの関係が気になれば、それすなわち作品に関心抱くと同じ→1話へ

:1クールであれば、おもしろそうな要素は出てるはず
→自分にハマるかどうか分かる

炎上商法は、もう終わりだろう。誰かをアジテーターにして、騒ぎ立てて、過激なことばを使い、過激な活動をすることには限度が見え始めた。いかに、香辛料を振ろうとも、人は慣れる。念じるまでもなく、過激さは身を潜める。暴力的な言葉よりは、突き刺さるような正論や、いっけん中立じみて、実のところ斜に構えただけのシニシズムが流行りそうだな。

理屈からすると、押井映画をもっとも好むと思うんだよな。押井さんは全て理詰めでカットを切って、その画面に対しての印象を考える。だから、自分と合うと思ったんだけど、イノセンスは3回寝て、やっと見切れたし、面白いと思ったのは、「ビューティフル・ドリーマー」「攻殻機動隊」「パトレイバー2」だけ。庵野作品も好きだけど、それは、いびつなところをいびつなまま出すから好きなのであって、全て好きなわけではない、と思う。とすると、やはり自分にとっては、今敏作品がいちばん好みだった。

全てのカットに意味があり、そして、その半分くらいに、自分の思惑とは違うカットが交り、それを考えている間に、マッチカットに撃ち殺される。いや、どうなんだろうね。自分の嗜好というのは、自分が思ってるよりも、不明瞭だと思う。レイアウトについては、今敏が好き。タイミングは庵野が好き、理屈的な映画としては、押井映画が好き。富野はよく分からない。宮﨑駿も、いやもっと、よく分からない。

まずは、そもそも「どのようなものが良いレイアウトというのか?」を考える必要がある。画面内の要素にこだわりすぎていては演繹的すぎて、破綻しそうだ。

すなわち、「これめっちゃ良いレイアウトやん!」
→なんで、良いんだろう
→要素を分析
→抽出して、あるていど、「この要素で(レイアウトを)探れるんじゃないのか?」を考えて




すなわち、こんな駄文を書く前に、映画を一本でもはよ見ろということだ。前半の文章はキモイので消した。

もうアニメを見る気力がだいぶ少ない。賭ケグルイの各話は継続するよ、これは決めたことだから最後までやる。だけど、いつからか、似たり寄ったりな表現ばかりで、もう新しさも真摯さも、自分を興奮させてくれるものがない映像を見るというのが我慢ならない。いつだってワガママである、それは承知の上だ。一つのアニメや、少ない本数で全ての傾向を語るということが愚かなのもわかっている。だけど、これ以上、発展性があるかと言われると、そう思えない現状ではないか。

同じような次回への引き、同じような作画、同じような撮影、受けて側のことを考えすぎて、苦しく苦しくなっている創作物に果たして、快楽はあるのか。こちら側などまったく見ずに、勝手にやってくれる作品が好きだ。「これが正解ですか?」などと、チラチラこちらの反応を伺わないで欲しい。だから、作画であれば、黒田結花と野中正幸には無限の可能性を感じた。彼らからは、自分たちの芯を貫き通しているような感じがした。

ストーリーを突き詰めてもいいし、絵のかっこよさでゴリ押してもいい、アーティスティックで病気じみたようなものでもいい、面白ければなんでもいい。とにかく多様であって欲しい。キン肉マンの作者は、この前、「整合性は気にせず、思いっきり勢いで書け」と言っていたけれど、本当にそのとおりで、整合性など気にする人間は捨て置けば良い。面白さがあれば、整合性は消え去る。


ただ、賭ケグルイ2話のBパート終盤については、ああ、良い作画だなあと思った。田中宏紀だとは、作画をあまり知らない自分だから、パッと見はわからなかったけれど、どこか他とは全く違っていて、ああ気持ちのいい映像だなと久々に素直に思えた。


きわめて、気持ちの悪い記事になった。まあ、こうなると結論は一つで、本数を増やすことだ。アニメに対する偏見を全て捨て、自分の好みそうなPVであれば、まず1話だけでもいいから見てみることだ。そうすれば、きっと、まだ面白いものは転がっている。

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