☆chiakiちゃんのブログ☆(別館)

日々の徒然、雑多なテーマに対し雑に述べる→本館はGOMISTATION

中高生の読解力にかんして、低下しているという記事がこの前出た。僕としては、載っていた問題を、一瞥して嘲笑するばかりであった。なぜか。読解力とは、ひっかけテストでは測れないからだ。その問題のどこでミスをおかしたか、を的確に見定めるためには、まず、語彙の知識の確認、短文の読解の確認、そこから文章/文脈の読解の確認へとつながっていく。

今のおおかたの読解力テストは、語彙の知識も関係なく、短文の読解を必要とせず、文脈のみばかりを読解させようとする。このような、ひっかけ悪文は読解力を的確には測定できない。論理性を重視した文章、合理的な結論を当てさせる問題などが、読解力の本質であると思っているが、巷の人にとっては、少し集中を欠いただけでミスってしまうような、ひっかけ問題が読解力を測定できると誤認しているようだ。

また、呆然としたのは、「それでは、分かりやすい文章を心がけ、そういった文章教育をするべきだ」とい批判がいっさいなかった点である。わかりにくく読解に時間がかかる、霞が関文章、役所の細々とした文章を読んで、いたずらに時間を無駄にすることが、果たして合理的であろうか。社会にとって、利益的であろうか。僕はまったくそう思わない。なんなら、敬語さえも、特別な場を除いて、使う必要すらないと思っている。それらは全て実利がなく、無駄である。

日本の国語教育は他国に比べて、非常にずさんである。と言うしかない。漢字テストを受けさせ、漢字の意味を覚えさせない。使用語彙と理解語彙の区別をしない。ひっかけ問題のような読解力テストを賞賛する。これでは、SNSやネットがいくら発達しようが、他人に対して、自分の意見を伝えることはままならないのではないか。不特定多数の他人と意見や議論を交わすことは、難しいままではないのか。そのように、ずっと苦しもうとする、まるで体育会系のシゴキのごとき、文化人のハラスメントには、呆れるしかない。

シレン2テーブルマウンテン 縛って30分クリア

縛り
・モンハウ逃げ禁止 全モンスター殺害するまで次の階にいけない
・鍛冶屋、お店、壺屋すべて禁止
・白紙、ジェノ禁止

ほかなんかあれば

ゲストを呼んで(自分がよく分かんない)好きなアニメーターの話をしてもらう

ただで楽しい上に勉強になる

これ最強じゃね?

2年前くらいの怒りと嫉妬に満ちた発言集を供養してあげたいとおもう。ただの恥さらしでしかないが、自戒を込めていこう。ついでに今の自分からのツッコミも入れていくぞ。

いい子いい子してもらいたいんだったら、身内で本でも出しておけばよろしい。ブログを書くんじゃない。コミケや同人誌を作ればよろしい、イベントをすればよろしい。君たちにとっては楽しいことだ。なんら意味のない行為だがな。
嫉妬に満ちてて草。これはあれですね、まっ◯ねkar◯miがイベントしたときのものですね多分。


ブロガーなど単に区別するだけの肩書だ。アニメオタク、なんとかオタクなんてのは全部、世間から見た時に分かりやすくするためのラベルにすぎない。君たちは偉いわけではない。読者がいて、見てくれている人がいて、初めて成立するのだ。彼らの存在を忘れ、サル山の大将になったつもりでいる輩から臭う、あの強烈な悪臭は隠し切れない。

認められるということは必要ない。なぜ、こんな全面にブロガーというものが出てきてしまっているのか。裏方さんであったろう。それがいつの間にか、ブログは自分のブランディングをするための装置となり、記事は副産物となっている。これでは、本末転倒である。僕の名前など覚えなくてよろしい。ぼくの書いた記事に載っている名前を覚えてもらわねばならんのだ。
アニメは君たちだけのものではない。独占欲の強い、優越感を抱くことでしか、安心をつかめないタイプの人間がアニメオタクには多すぎる。なぜ、この21世紀にもなって、知識や情報を自慢するのだろう。愚かな行為である。Googleという便利な箱があるにもかかわらず、知識の多寡によって優劣を決め、権威を決める。くだらない。ぼくは読者と対等でありたい。
ぶっちゃけ、言い方はあれだけど、この辺については今も考えは変わってない。


どこか俯瞰的で、ニヒルで、真剣さなどなく、真面目に取り組むのを馬鹿にすると衰退しかない。相互批判の無さは酷いレベルを超えている。もっと真剣に語るべきだ。なぜそれが許されない。ふざけるんじゃない。ゴミどもめ。

奴隷化は現実社会のみならず、仮想社会でもすすんでいる。縛れば縛るほどに規制は激しく、意見の交換などできない。ぼくが妥協するだけだ。我が強い奴らは幸せだろう。ぼくみたいな人間はずっと辛いがな。

権威主義に汚染され、懐疑的にならず、相互批判の体制を整えず、つまり馴れ合いのままで進行しているのが今のアニメ業界の全部といえよう。もうそんな人と話したくない。権威主義的な人は意外と権威を羨むが、それはそんな環境下で育っていることが多いからだ。
これらのネガティブな発言集はいったいなんなんだ…と思ったけど、ヤッターマン記事で揉めたときのストレス発散だな。今見ると、ちょっと理想化に走りすぎなきらいがある。権威主義ではない方がいいと今も思っている。


記号化された作画に対し、記号化された論評しかないから、どんどん閉鎖的になっていく。ならざるを得ない。映像を見る上で最も重要なのは「どうしてこのカットが魅力的であるのかについて思索を巡らせる」ことであり、「誰が描いたか」ということではない。
これは上の権威主義に通ずるところがありますね。

人によって接し方、コミュニケーションの仕方を変えてる。気難しい人には丁寧に、そうでない人にはおおらかに。普通の人とは(気が合う人とは)あまり接し方を気にしたりはしないと思うけど。我ながら単純に聞き上手な節はあると思う。だけど、そこに付け込まれることも多いから、聞き上手が良いとは一概にいえない。理想主義を押し付けられたり、単にそういう扱い(自分の言いたいことだけ言う)な人もいるし。なんかね、そういうのは全部もうメンドイ。もっと見栄はらずに生きろ、素っ裸になって生きようよってせめてネットぐらいではと思うんだけど。なかなかしょうもない見栄はるために人は取り繕うんですなあ。自虐風自慢はその最たるものだよ。

コミュニケーション能力が高い人ってのは、大体人によって接し方ほとんど変えないと思う。大体同じ。そんですごい話題の振り方が上手い。だから、常々コミュニケーションは基本的に双方向って主張しているけど、やっぱり個人に依拠する部分も多い。

こう言っておきながら、人付き合いはそこそこ得意だけどね。どこから入ればいいとか、どうやったら好かれるかとかは大体中学校のコミュニティで全部学んだ。時たまのボーンヘッドを怖がって、最初は何もできない感じだけど。親密になっていく、親友を作るのは得意。友達はたくさんはいらないかな。自分の好きな人だけで、自分の時間を生きたい。そこで相手に迷惑をかけたくもない。
嘘つけお前コミュニケーション苦手じゃねえか、なんど面倒事を起こしたと思ってんだよwネットのみならず、現実でも衝突が多すぎるだろう。初対面の人とまったくしゃべれないだろ、仲良くなっても適当に相槌打ってただけだろう。周りの人が、自分から言えない意図を汲んでくれていたことに気付いてないね、これは。


愛されたいとはすごく思うけど、愛された状態を保つことの難しさもよく知っているので、ぼくはその状態を望まないだろうな。優しくしていて、スッと普通に戻ると、人間は態度を豹変させて襲いかかる。それがこの上なく怖い。

まあ、僕は単に人が怖いだけなのかもしれないけれど。けっこう80%ぐらい仲良くならないと、中々自分の本音も言えないし、そんな人や身内にも中々自分の素直なきもちは言えない。それは良くないことだし、社会的にも良い意味をもたない。
本音は家族や親友、とても仲がいい人にも中々言えないから、ときどき衝突が起きてしまう。喧嘩とかじゃないんだけどね。うまく自分の言いたいことが伝えられないところに、コンプレックスがある。



もう嫌だ。エフェクトなんて見たくもない。僕は普通に楽しみたかっただけなのに。普通が欲しかっただけなのに。なぜいつも奪われねばならないのだ。おれが何をした。理不尽を理解しても納得などできぬ。俺は嫌だ俺は楽しくやりたかっただけたま。いつもそうだ。
どうしてこんなにストレルフルに生きてたんだ。被害者意識が強すぎる、視野狭窄ここに極まれりといった感じの思考だな。2014~15年ぐらいかなあ。ブログが受け始めた時期だと思う。


今までは、自分の頭で考えていた素直な反応、つまり実直な感想・主張をウェブで公開するときには、オール・オア・ナッシングですごく極端だった。尖っていたときはオールで出して、今はほとんどナッシング。だから、何も言えてないに等しかった。話題にされるのは怖い(このように怖いと言えなかった)し、でも一面ではありがたいという微妙な感想を言うことができるかもしれないから、嬉しいのだ。後は自分でバランスを取って選ぶだけなのだから。
ブログが受けそれに伴って反応が増えてきたときの感想かな、これは。話題にされるのは、嬉しくもあり、怖くもある。意見が欲しいから、ネガティブなコメントもあるていどは受け入れようと思っているけれど、このへんは今も変わってないかなあ。結局、怖さや不安は無限だよ。


このくらいかな。こうやって振り返ると、当時は、自分から疲れよう、ストレスを感じようとしすぎているなあ。そんなに辛い生き方しなくてもいいのに。まあ、あまり考え込まないように生きていきましょう。

に挑んでみたが、やはり難しい。とっ散らかっているな。文章は抽象/具体の2つしかなく、あとはそのバランスだと思っている。「現実の曖昧さ」という抽象論は、自分の思考を、とくに分かりやすくすることなく、ある程度整理して提出しただけだ。これは抽象論というより、メモ書きだろう。いや、別館はそういったことに挑戦する場だから、構わないのだけれど。

勘違いしてほしくないのは、ぼくが東などのエセ論評に憧れてはいないということだ。彼らの言説は、いかにも、もっともらしい文章を、いたずらな抽象論でごまかし、社会学と結びつけた”ように”みせているだけだからだ。どうして、彼らに憧れるようなブロガーが後を絶たないのだろうね。あれは、”賢く”みせているだけなのに。

ぼくらにとって、ダウンタウンとは「テレビの存在」であったはずだ。いかに現実で撮影が行われているとはいえ、彼らのコントを見るのはブラウン管の中であった。ネットが普及するにつれ、ロケが終わると、SNSで芸人が発信し宣伝する。Amazonビデオでは、松本人志が企画した「ドキュメンタル」が、まるで、以前のテレビと同じように流れている。

ネットのような空間と現実世界の境界線は薄くなりつつある。これは以前から言われてきたことなので、もの珍しい言論ではないだろう。ただ、ぼくが思うのは、その曖昧さを生み出しているのは、SNSでもなく、ダウンタウンでもない。ぼくら一般人なのだ、ということである。この前の衆院選で、それは顕著に現れた。立憲民主党はテレビやネットを「使った」のではない。「使わせた」のである。枝野幸男を見て、おのおのが自主的に動画を撮り、SNSで発信して盛り上がった。一般人が現実をネットに発信することにより、ブラウン管の中の人間との距離が近くなった。

従来のテレビの構造においては、盛り上げたいと思う「主催者側」が率先して宣伝活動を行ってきた。それに対し、最近では主催者側よりも、一般の観衆が、ー何か言われたわけでもなくー、積極的に宣伝のような行為をしている。その結果として、ネットと現実の境界線は曖昧になりつつある。一般論としては、主催者側/企画者が「ネットに近づいた」ために、その曖昧さが生まれたような言説が見られるが、そうではない。ぼくら一般人が、現実の出来事をネットに発信しすることによって、今の曖昧さが生まれている。すなわち、主催者が意図せずとも、現実を発信するのにネットを使ったことで、現実はより曖昧になっている、と思うのだ。

本館の方を読んでくれる人の多くは、やはりコアな方だと思う。ライト向けに書いているが、やはり理解/言語化が難しいということで、ライトファンまでは届かない場合がほとんどだ。しかし、コアなアニメファン以外にも、ある読者層がもしかしたら親和性が高いかもしれないことに気付いた。

それは、腐女子/BL好きの存在である。以前の記憶を探ってみると、ワイヤー記事のときも、ルルーシュを使ったギャグに反応してもらっており、嬉しかった記憶がある。彼らがなぜ印象に残っているかというと、「自分が気付いてくれたら嬉しい場所」に突っ込んでくれるからである。BLはあまり読んだことがないが、繊細な感情/情愛に対する感性が重要なジャンルであることに間違いはなく、その感性がエフェクト作画にも払われているのかもしれない。

意外すぎて、最初は驚いたが、そもそもアニメファンであれば、誰でも楽しめるものだ。映像の動き方や、キレイさの分析については、もしかすると女性のほうが優れているかもしれない。

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