千了=1(別館)

日々の徒然、雑多なテーマに対し雑に述べる→本館はGOMISTATION

労力は数字で表す

村木靖 (4)爆発と煙 (必)
・エウレカとビバップ中心

後藤雅巳(5)爆発と煙
・∀ガンダム中心

村木+後藤サーカス(6)
・サーカス作画記事の一つとして

青山浩行(3)
・劇パト3とバットマン、サマヲ、ダンディ

宮沢康紀(湯浅系)(7)
・調べること多し

佐々木政勝(9)
・参加作品多すぎる
・絞って特集

鴨川浩(5) (必)
・ギアスとそらのおとしもの、ハガレン、クラウズインサイト
・あと最近のやつ

橋本敬史(3-8)
・増尾との関係を書く軸だったら、3くらい
・変遷は8ぐらい労力いる

柿田英樹(5ー8) (必)
・主要な作品に絞る

吉成(2)
・特に改めて言うことがあれば
・政勝との関係

1、2月 無理をしない
3月無理をしない 下旬から後藤雅巳
4月無理をしない 中旬から柿田英樹


もしくは一人のアニメーターに絞って、調べ上げる方がいいかもしらん。

磯光雄ホッテントリな今って作画啓蒙の絶好のチャンスじゃね。いま磯作画(でもなんでもいい、磯作画がすごいでも、エヴァの作画でも)を啓蒙した方がより多くの人に作画にたいして、理解してもらえるんじゃねえの?「作画崩壊」を使うとか、絵柄の違いをそう呼んじゃう人を潰すのは躍起になるのに、こういったチャンスはみすみす逃すよね。なんだこりゃ。

何も見えなくなってしまうんやで。言葉で飾ると、曖昧になる。曖昧になると、抽象的になる。抽象的になると、何が伝えたいのかわからなくなる。で、そもそも何が言いたいのかが分からなくなってしまう。おそろしい。はてなブログとかはてなダイアリーで多いと思うんだけど、だれが流行らしたん?こういうクダラナイお遊び。

これで何を伝えたいのが曖昧になって、すんげえ長くなる場合も多い。いや、これは俺もあるんだけど。彼らは意図的に長くしてんだよね。長くて難しい文章が正義だと思っている。

「利己主義」とか「セルフィッシュ」みたいな文語表現やカタカナ語は避けています。それは、なるべく多くのひとに、自分の意図を明確に伝えるためです。どうしても、避けて通れぬ時、すなわち、「波ガラス」だとか「透過光」とか専門用語を使うときも、注釈を付けるようにしています(ただ、冗長になりそうな場合には、省きますが)。


たとえば、「幼女戦記」についての感想として、

例1A:『自己犠牲的かつ利他的な主人公が多い既存の戦記モノと違い、今作の主人公は利己主義である。この点において、画一的な他の作品とは差別化される』

例1B:『「みんなを助けようとする」主人公が多い戦記モノと違って、今作の主人公は自分のことしか考えていない。この点において、他の作品とは一線を画している』


例1Aは、自己陶酔して難しい言葉を(あえて使い)、自分を高く賢く見せようする人の文章です。よくやるんです、これよりもっと複雑にしてしまう。あれに騙されないように。難しい言葉を使うことは聡明さには結びつく、と勘違いしています。

この記事のタイトルも、「言葉の選定」と言い換えることができます。ただ、ここでは「選び方」で十二分に事足ります。文章は難しくしようとすれば、際限なく、言葉を継ぎ足していき、名詞表現を多く使うことで可能になります。しかし、それは、ただの陶酔です。難しい言葉でいくら取り繕ったところで、得られるものは自己満足だけです。 

一部を除いて、ほぼぜんいん滅んで欲しい。まあ、おれがまた「はてな」でも「ツイッター」でもてっぺん取ってやるわ。待っていろ。おれは誰のケツも舐めたりせんし、互助もしない。するのも面倒くさいね。

LIVEStreamとかにするかなあ。固定ページがあった方が楽でしょ。いちいち、ニコ生きてーってやるのもめんどいし。しかも、あそこ30分で枠いちいち取らんとアカンし。まあ今は忙しいんで、配信するのは3月、4月以降だと思うんだけど。 

「作画崩壊」とは、もはや一種のネタ用語になりつつある。批判的な意味合いにとどまらず、キャラのデフォルメ(FXで有り金溶かした人の顔とか)を形容したりもする。本来的な意味としては、「作画が崩れている(動きが固い、リアルでない…etc;多義語だ)ので、ダメだね」というものだろうけど、今はもっと柔軟である。

すなわち、作画崩壊というワードをめぐって、作画ファンとライトなアニメファンの間では断絶が起こっている。作画ファンにとって、作画崩壊とは、田中宏紀やうつのみやさとるを侮辱的に扱った、「タブーな言葉」である一方、ライトファンにとっては「キャベツ事件」に代表されるように、ひとつのネタのように、いろいろな意味を含んだ軽い単語として扱っている。ライトファンがこの言葉を使うときは、「ちょっとまた作画崩れてるかもwつぶやこw」みたいな、比較的にかるい態度であるが、作画ファンにとっては、もっと深い態度で使うような(いや、そもそも使わない)単語である。

いまさら、「作画崩壊」という言葉の意味を作画ファンが持つイメージに寄せるのは非常に困難、いや不可能である。いったん根付いた言葉のイメージを変えるのは至難の技であり、果てしない労力がかかる。しかも変えたところで、作画へのコアな認識や、本質的な部分はすこしも揺るがない。

では、どうしたらいいか。作画への敷居の高さをなくし、もうすこし人口を増やすためにはどうすべきか。という問題に直面したとき、作画本来の持つ、楽しさを、媒体にかかわらず伝えるべきである。砂場で遊ぶとき、スコップは「土を掘るため」のものとすぐ分かるが、ギギンガフォルトというよく分からない道具があったとき、それをどのように用いて遊べばいいかは分からないだろう。であるならば、一緒に砂場で遊ぶときに、ギギンガフォルトくんの使い方や楽しみ方を教えてあげればいいだけのことである。少しだけ使うのが、とっつきにくいかもしれないが、優しく、丁寧に、そして知識に偏向せずに、教えてあげれば、きっとギギンガフォルトくんを使って砂場で遊ぶ子も増えていくはずである。

著作者にはどんな権利がある?

中には、「西野は脚本と絵コンテしか書いてない!絵は書いてないから、西野は仕事してない(=西野に著作権者たる価値なし)」とトンデモ理論をかます人がいたんだけど、絵コンテと脚本も立派な仕事なんだよねえ。この辺は、憎しみのあまり、先行してしまったという感じで。

エンドクレジットがネットではオミットされた件もそう。33人もスタッフがいれば、著作権の扱いは煩雑になる。著作権が発生するとき、著作者人格権が発生する。この人格権は、簡潔にいえば「著作権者の名誉を守るもの」だ。公開するかを決める「公表権」、タイトルや中身を変えないでねという「同一性保持権」、俺の名前は出してもいいけど、ペンネームでお願いねという「氏名表示権」の3つによって構成される。

そんで、著作権はあまりの権利の多さに、「権利の束」と言われたりする。複製したり、展示したり、上映したり、二次的な著作物にオッケーサインを出したり、たくさんの権利を持っているので、こう呼ばれる。今回のケースでどういった契約になっているか定かではないが、仮に共同著作権者の場合にも、実務的に「著作者人格権」は行使しないよう(もしくは放棄を)依頼される。理由は簡単、作業が煩雑になるからだ。展示する際も、頒布する際も、いちいち30名の承諾を得る必要がある。

で、今回の場合には、 そもそも共同著作物とはなっていないだろう。理由は同じである、煩雑になるからだ。だから、西野が著作権者であり、スタッフは一時的な契約(外注)だろう。これについてが、外野がとやかく言う資格はない。西野はブログで報酬を払ったと記載しているし、共同著作物にしたいのであれば、最初の契約時に申し出るはずだ。もちろん、これらは憶測の域を出ない。

憎しみのあまり、事実の認識を見誤ることは多々あるが、 今回は著作権に対する認識の甘さ(調べ無さ)が多く見えた。そのくせ、西野が少し間違えて、ツイッターの画像を引用やら、無断転載すると、ここぞというばかりに非難する。これがダブルスタンダードでなくて何なのだ?自分たちの認識の甘さは棚に上げて、非難するのは筋が通らないのではないだろうか。

絵コンテや脚本にも、クリエイティブさは必要だし、作業も多くの苦労がある。何もわら半紙に適当に書いて、成立するものではない。今回の件から垣間見えたのは、実作業ばかりを重んじ高尚なものとして扱い、脚本や絵コンテといった設計図に当たる部分を「下に見ている」という、に人々の偏見と無知であった。

は少なくなった気がする。シーンにもよるけど。

例を挙げるとキリがないのだけれど、

例えば、「小林メイドラゴン」02話Bパートは、キャラクターの戦闘が中心のシーンなので、エフェクトが脇役になるのは仕方ない。それにしても、もう少し、エフェクトにも写実性(表現する意味)が欲しい。もっと言えば、「画面のエフェクトに意味」が欲しい。ガルパンのエフェクトには、強く意味を感じるけれど、幼女戦記やコバドラにはそれがないとおもう。すなわち、取ってつけたような、まあ戦闘シーンだし入れとくか、みたいな感じがする。だから、画面が良く見えないんだと思う。「そんなもん最初から、このシーンには求められてない」と言われたら、それまでだけど。

ああいうのは全力でやるから、良いんすよ。全力でやらんかったら、ごっこになってしまう。ごっこになると、いっきに映像に没入できなくなる。

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