☆chiakiちゃんのブログ☆(別館)

日々の徒然、雑多なテーマに対し雑に述べる→本館はGOMISTATION

配信に根本から向いていない。普段の会話からしても、僕はいつも話を聞く方だし楽だ。なんだろう、配信は1人喋りだから楽だろうなあと思ったんだけど、こんなにも難しいとは思わなかった。舐めていたな。声も高くて良くない。「安心」というのが、まず大事なのだ。愛想笑いの達人の自分には、薄っぺらい安心しかないのだ。

「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB
きちんとした定義を長らく知らなかったが、こういうことらしい。一蹴しようかと思ったが、少し考えよう。「スーパーマン」「スパイダーマン」もセカイ系に属してしまいそうな、危うい定義だ。ここ2週間でがっと漫画を読んだ。ずっと漫画をおざなりにしていたから、あるていどは読んでおかねばと思ったのだ。セカイ系とは評論利得のために、作られた定義だろうなと、あるていどの確信をもっている。

「スーパーマン」の間に、中間の物語はなかった。では、スーパーマンはセカイ系か。そもそも、恋愛といった小さな関係のためだけに、世界の運命が左右される物語など無限にあるではないか。竹取物語はどうだ。伊勢物語はどうだ。手塚治虫はどうだ。くだらないな、やはり一蹴するしかない。


で、本題は、こんなちゃちい定義のことではない。僕は、前から読みたかった作品をここぞとばかりに読み込んだ、読み直した。そして、一つの仮定を導いた。『物語においては、主人公側よりも、「敵の変遷」がきわめて重要ではないか』という仮定である。雑な議論になるが、ご了承願いたい。

「鉄人28号」「鉄腕アトム」といった世界は、ロボットに対して、主人公もロボットであった。つまり、『巨大な敵』に対しては。同じくらいの『大きな力』で臨んだ。これは、くそほど適当だが、「エヴァ」くらいまでは続いたのではないか。そして、変化があった。この変化がいつかは、皆目分からんが、強大な敵に対し、等身大の主人公が挑む作品が増え始めた。その代表が、「進撃の巨人」である。誤解しないでほしいが、ぼくは、これらの変化や変遷や、敵について定義しようとしていない。戦国時代から、竹中重治のような軍師が稲葉山城を占拠するといった結果は残っているし、探せばいくらでも物語にはある。

問題は、近年の「敵」が、なぜ対等なものではなくなってしまったかだ。巨大な敵を倒せばカタルシスとなる点もあるだろうが、リアルさを追究した結果ではないかと僕は思うのだ。巨大なロボットに対抗するために、こちらも巨大なものを用意しましょう。それは一般の民衆にはできない。国家に対抗するというのは、どうにも身近にはなりにくい。それでは、自分たちの、等身大の姿・力で戦いましょう。これなら、わりと説得力がある。どうせ、1人の人間にできることは限られているのだから、人海戦術で行きましょう。犠牲者を残酷に描こう。犠牲なくして、強大な敵には勝てない。そうなっていったのではないかと思うのだ。まるで、最近の作品は戦争の歴史そのものではないだろうか。

自分たちが持っている、そのままの平凡な力で、大きなものに対抗しよう』、これが主軸である。「モンキーピーク」という漫画を読んだ。これが素晴らしいのだ。主人公は特殊な力も持っていないが、知恵を振り絞って、猿神から逃れようとする。もう一つ挙げるならば、「亜人」である。こちらも同様だけれど、少し完璧すぎるような気がする。キャラクターがすべてお利口に動くと違和感だ。


こういった雑な論評はあまりしたくないが、どうにも頭から離れなかった。「進撃の巨人」は単純に面白いのだけれど、重要な作品である。そこで、セカイ系だの、そういった文脈でまとめられるのは非常に甚大に腹が立つ。よって今回こういった文章を書いた。ああ、はやく24巻が読みたい。

なんだとおもう。これだけ、なんというか、体感的になんだけど、ネット上で常に戦闘状態みたいなのはあまり見たことがない。常に顔真っ赤にして憤っているというか。淫夢/下ネタ/ネタ界隈みたいなとこだけ平和で、なんだかなあと。ふだん、真面目に論客ぶってる人が実は下品なんじゃないかと思えてきた。それぐらい気持ち悪い状況。だから、みんなギリギリで生きているんだなと。俺もだけど。

「わしのイケボが全世界に轟いておるんやろうなあ」、そんなことを考えながら、オフラインになった配信を15分ほど行っていました。轟いていたのは、わずか6畳半ばかりの部屋でした。恥辱とはこういうことをいうのでしょう。

さて、「KARAKARA」配信の続きですが、少し日を開けて、11/25あたりにやる予定です。また、きちんとした日にちが決まり次第、こことTwitterで告知する次第でございます。ああ、本当に、今日ばかり恥ずかしい日はなかった。穴があったら、開拓したいほどには恥ずかしかったです。以上

内外、とくに内側からの批判・非難がきちんとされるコミュニティは、長く存続する。「2ちゃんねる」「ふたば」「Twitter」などは、アンカーなどをつけることで、相手にレスポンスができる。つまり、双方向的な批判が可能だ。匿名/半匿名の差はあれど、あるていどは自浄作用が機能している。

逆に危ないのは、「はてなブックマーク」「BLOGOS」「フェイスブック」などの、内輪コミュニティである。はてなブックマークは、ブコメの性質上、一方向的な批判・非難しかできない上、咎められることも少ない。リンチに向いた、コミュニティである。BLOGOSは、まるで公家社会のように、内輪で賞賛し外側からの批判を嘲笑する。この点は、はてなブックマークも同じだろう。つまるところ、自浄作用は機能しておらず、なあなあのままである。

自浄作用が強いコミュニティは、結果として、排外することも少ない。よって、多様な意見・主張・ネタを生み出すことができる。逆の場合は言うまでもないだろう。排外主義者が集まり、権威主義が横行し、つまらないコミュニティで呼吸をすることになる。

問題は、このような、リンチ・コミュニティが活発であることだ。正確に言えば、コミュニティの中において、リンチ的な部分がより強く盛り上がる。画家の炎上発言で、みんながリンチする。なぜ、リンチは何度も起きているにも関わらず、飽きないのか。それは、「絶対に殴り返されない」というネット的リンチだからである。脳内物質はワンパターンに現出することだろう。リンチをする、ストレスが解消される。よって、ドーパミンがシナプスから放出される。この繰り返しである。すなわち、リンチ・コミュニティとは、麻薬中毒者のコミュニティであるのと同義であるのだ。彼らは、今も、麻薬に浸って過ごしている。

小学校理科のプリントに書かれた、”実験をして、~を「考察」しなさい。”周りは何も言わずに取り組む中、この「考察」の二文字の意味がまったく分からず、教師に尋ねた記憶が今でもある。そのときに、はぐらかされ納得できなかったために、何度となく問い直すのかもしれない。

今のサブカル評論はきわめて、二極化している。「考証」か「推察」かの二極化である。ある作品内事実に対して、客観的なアプローチを行い、その事実の整合性/正確性を確かめる。これが考証である一方、推察/推測は、事実を元に作品内の展開/内容を推し量り、自分の意見を述べることである。この2つの試みは、どちらも誤っているわけではない。大事なのは、常にバランスである。

どちらかのみを追究しても、僕はそれを考察とは思わないし、面白くもなんとも感じない。考証のみならば、単なる客観的な事実の再確認にとどまるし、推察のみならば、冗長な主観的文章がだらだらと並ぶだけだからだ。ぼくは、特に、実名ではないブログにおいてこそ、考察はできると考えている。クリエイターの顔色を伺うわけでもなく、なにかメンドウな版権処理があるわけでもないからだ。

しかし、なぜ考察が廃れた/少ないのか。それは、単純に日本人的な気質に尽きるのではないかとおもう。「曖昧さ」は日本人を語る上で、的確な言葉だろう。ハッキリしない、意見を批判と間違える。これらによって、意見を言うことそのものが恐怖になっているのだ。他人から馬鹿に見られていないだろうか、そういった他者評価の誤認も、意見の発信を妨害している。


阿知賀編をドヤ顔に着目しながらまたまた読み返しました
http://hatorashiako.blog.jp/archives/1067403702.html

考察の点において、このブログは素晴らしい。自分のやりたいことが詰まっていて羨望である。この記事はもちろん自戒も込めている。自分が苦しむのは、考察と推察のバランスであるからに間違いないからだ。

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