IAKINGLY_UMA

馬、ゴシップ、その他生活モロモロ→本館はGOMISTATION

たびたびの移転、不甲斐なく…
ご迷惑をおかけしている

ライブドアは直感的で使いやすい
「記事を書く」スペースが画面全体じゃないので、そこが気に入っている。

ここかねえ。

第1回の共通学力テスト(旧・センター試験、共通一次試験)が16.17日に行われた。さて、共通学力テストの謳い文句は、一貫として「知識だけでは解けない、思考力を使う問題の選定」である。旧・センター試験のラスト2年あたりから。この謳い文句に疑問を抱く。いや、センター試験というものに出会ってから常に思ってきた。

思考力を使う問題に対して、択一式(マーク式)試験を採用するのは、本質的に矛盾ではないか。「思考力を総合的に見る試験」ならば、受験生が「どのような思考を経て、どのように記述したかを見る」ことを最重要とすべきだ。択一式試験においては、たとえば、a~dの4つの選択肢があり、bが正答だった場合に、そこに至るまでの受験生の思考は0か100であり、たまたまヒットした受験生と、そうではなくきちんと考えて正答に至った受験生と、半分ていどは思考過程が正しかった受験生の点数の差別化ができない。まったくできないのだ。これは試験制度として破綻してはいないか。

こういうわけで、従来の旧・センター試験から択一式には反対意見だったのだが、思考力を要する、という謳い文句の共通学力テストになって、さらにそれが強まった。つまり、記述試験ならば、文科省が考える、コンセプトの論理はわかる。思考力を要する問題を出して、それがなるべく形になる(得点化しやすい)記述試験というもので判断をする。これならば、納得だ。そうではなく、思考力を要するという不明瞭な謳い文句の元、試験は択一式で行った結果、点数の差別化ができない。これは文科省の筋が通っていない、と思う。

そもそも、旧・センター試験時代から、数多の数学者・物理学者やノーベル賞受賞者に、「この試験は良くない」と指摘され続けてきたのだ。批判を受けても、この学力テストについての反省点はいっさい見られない。二回テストを行うにも関わらず、国公立二次試験の日程も変更をしない。もはや、めちゃくちゃとしか言いようがない。秋入学への変更も検討せず、春入学を強行する。

試験ひとつに、利権(岡山に親会社がある、バカなベネッセ)がついてまわり、制度設計できない。国公立大学は共通学力テストを無視、とまではいかないだろうが、東工大のような試験方式(※東工大は一次試験を足切りにしか利用せず、二次試験で合格者を決める)に大きく舵を切るかもしれないな、と考える。

ガワだけ、体面だけ取り繕えば、それなりに見えてしまう。ぼくはさいしょ、彼ら、Vの人たちが過度な「ロールプレイ」しているとおもいこんでいたんだけれど、そうではなくて、彼らは別に、最初から何かを演じようとする意図などいっさいないのだ。

なにかしらの設定はあれど、それを充足に演じることはむしろなく、その設定と、その中身との齟齬を取り繕う、どこかしら制服を着たイメージプレイをしている。そのズレを解消するわけでもなく、ときにはボロが出つつ、それを良しとする。なんだ、これはべつに、なにかの”ロール”を演じてはいないではないか。むしろ、設定はガワだけではないか。ロールを守らない方が良いではないか。

と考えていくと、やはり、これは老いの否定なのだ。老いるという現実はだれしも認めたくない。死に日々近づくということを肯定したくない。中身がたとえ、腐りに近い30代後半であれど、ガワさえ変えれば、誰しもがティーンになれる。幼稚園児にだってなれる。その老いの否定、いや老いを直視しないこと、それこそが、V周辺の本質であろうという推論に行き着いた。

老いを受け入れることは、死を肯定することに近い。醜く、くたびれて、朽ち果てていく自分を受け入れることだ。それに反するものであるから、これはいってしまえば、改造手術なのだ。日本という国が、まさしく老いを迎えている。そのことから、目を背けたいのだ。だから、日本でこそ、Vは流行った。流行るのには理由があったのだ。没落していく国を直視したくない、栄えていた国が、いままさに朽ち果てようと、腐り果てようとすることを見たくない。

その心がVの流行につながった。そう推測する。


アークナイツPV15
脚本・絵コンテ
渡邉 祐記

演出
中邑 正

キャラクターデザイン
平田 雄三
半澤 淳
(https://w.atwiki.jp/anime_wiki/pages/6925.html)

美術監督
野村 裕樹

美術設定
小畑 嶺二 (Goofy.inc)

撮影監督
宮田 悠司

色彩設計
のぼりはるこ

作画監督
小野田 貴之
中智 あすか
櫻井 祐哉(https://w.atwiki.jp/anime_wiki/pages/16385.html)
・Rewrite(バイブリー)、ぼくべん(シルバー)作監
斉藤 健吾

高藤 彩
(TRIGGER組)
糸山 礼央
(TRIGGER組、名古屋造形大学)
https://www.nzu.ac.jp/graduated-students/animator/itoyama_r/

渡邉 祐記
(動画工房の雄)
西川 将貴
(J.C.STAFF→TRIGGER?)

原画
草間 英興
(ゼロジー?※スタジオコクピットからの派生会社)
下江 侑子
(ゼロジー)
杉浦 英之
(タツノコプロ→フリー)
笹川 弥幸
(?→旭プロダクション)
藤木 奏史
(フリー?)
陣内 美帆
(サテライト??)
糸山 礼央
(TRIGGER組)
五反 孝幸
(中プロ→フリー)
成瀬 藍
(yostarもとから)

小長井 美南
https://w.atwiki.jp/sakuga/pages/2032.html
(スポットで参加する人っぽさそう)


PV14
コンテ
西川将貴(※トリガー組)

演出
西川将貴

作画監督
渡邉祐記
西川将貴
熊谷勇也
(?→シャフト?)
高藤彩
(ぴえろ→TRIGGER)

原画
糸山礼央
蒲原果歩子
小長井美南
成瀬藍
若一海
(WEB系)
笹嶋啓一
(グループ・タック出身→?)



13

コンテ
西川将貴

演出
西川将貴

作画監督
渡邉祐記

原画
西川将貴
糸山礼央
蒲原果歩子
小長井美南
成瀬藍
熊谷勇也


12
コンテ
西川将貴

演出
西川将貴

作画監督
西川将貴

原画
西川将貴
糸山礼央
蒲原果歩子
小長井美南
成瀬藍


11
コンテ
渡邉祐記

演出
渡邉祐記

作画監督
渡邉祐記

原画
渡邉祐記
蒲原果歩子
小長井美南
成瀬藍



10
コンテ
西川将貴

演出
西川将貴

作画監督
西川将貴

原画
蒲原果歩子
小長井美南


09
作画監督
斉藤健吾

コンテ演出
西川将貴

原画 
西川将貴
渡邉祐記
糸山礼央
蒲原果歩子


08
作画監督
渡邉祐記

コンテ演出
渡邉祐記

原画
渡邉祐記
高藤彩
糸山礼央



07
作画監督
渡邉祐記

コンテ演出
渡邉祐記
下田慧

原画
渡邉祐記


06
作画監督
斉藤健吾

コンテ演出
西川将貴

原画
西川将貴
中村真由美
高藤彩
糸山礼央


05
作画監督
斉藤健吾

コンテ演出
西川将貴

原画
西川将貴
高藤彩
糸山礼央
まつざきいずみ


04
作画監督
渡邉祐記

コンテ演出
渡邉祐記

原画
渡邉祐記


03
作画監督
斉藤健吾

コンテ演出
糸山礼央

原画
まつざきいずみ
中島政興
松崎大
桑谷伊智
杉江拓実
田中優衣
堀田志穂

02
作画監督
斉藤健吾

コンテ演出
西川将貴

原画
渡辺暁子
西川将貴


01
監督・アニメーションキャラクターデザイン
作画監督・アクション演出
斉藤健吾

ストーリーボードディレクター
下田慧

コンポジットディレクター・エディター
宮田悠司

アクションパート作画
糸山礼央

ストーリーパート作画
渡辺暁子

むかしは、原作のキャラクターにすごく準拠してて、それ以外のものはあまり認められないみたいな感じだったじゃん。あくまでこっちは消費者なんだから、原作守れやカスみたいな。今だと、めっちゃ面白いのが「言ってそうで言ってないセリフ」で、シャミ子が悪いんだよとか、あんたはここでふゆと死ぬのよ、みたいなやつ。どちらもこれ一発でだれかが二次創作したわけではなくで、SNSでたたき台ができあがった後に、生まれたんだよ。これ面白いなあって。すごくない?

クソみたいな作ヲタが配信荒らしに来たからちゃんとしつけとけよ。配信きてもいいけど、最低限の倫理はもってこいよ。作モン1級でした。itofan並のゴミだったぞ。いまさら作スレモンスターなんていらんやろwお腹いっぱいやぞこっちは。

配信にきて面白くもねえ言動繰り出した上に、ディスコすら繋がない。おれはitoさんとは相性が良くなかっただけだけれど、こいつはマジでおもんなかったわ。荒らしにくるなら配信盛り上げろな?んで、ディスコつないでなんでこんなことしたんかぐらいは配信で普通に会話せえや。おれがキレてようが関係ないやろ、お前(タカス)がきっかけなんだし。itoさんですら通話は出来た、他の作スレ住民ですらしてくれた。できないくせに、おれはあんなゴミ溜め(作スレ住民)たちとは違うってイキってたから余計に草なんだ。

・悪口を言うときは自分のコンプレックスの裏返し
・マジレスされても困りますw
・通話はできません(???
・しょうもない煽りの連発


タカスの特徴な、マジでこれぐらいしか言わなかったぞ。幼稚な冷笑ネトウヨって感じ

まとめサイトみたいな知識で生きてんなあ、大変そう。

こんなくだらない感傷に浸るひまがあったら、ひとつでも記事をあげた方がよい

※本館用に書いたが、偉そうになってしまったので別館に投げる


日本における「作画を語る」といった文化は残念ながら過疎化の一途をたどっており、おそらくいったんは消滅してしまうだろう。そもそも、この文化は、あるていどの敷居があり仕方ないかなと思う一方で、もう少し間口を広くして楽しく参加する人を増やせたのではないか、とも思う。現実的に、これから人を増やすことはとても難しい。残るのは気色の悪いコミュニケーションの羅列だけだろう。

負けはある。仕方ないので敗因を考えよう。敗因は「語る」の定義にある、と思う。「これは語れている/語れていない」、ということで無駄な内ゲバを繰り広げたのをよく見た。語るとは、単純に「この人ってここがすげえよなあ」みたいなことで、つまり、「特定のアニメーターについて、自分なりにの言葉で説明する」ていどで良かったのだけれど、「面白さ」ではなく「正しさ」が過剰に重視されてしまい、「議論」ではなく「論破」のような方向に向かってしまったのが悪かった。そのように個人的には思う。

「語る」というのは、つまるところ「自分の”視点”を見つけて、他人に丁寧に説明(紹介)する」だけで良かった。複雑で難しい修飾語をつけるでもなく、よく分からない難しい理論を持ち出すでもなく(※他者に伝えるのだから、余計な複雑化は無意味だろう。自分にしか分からない理屈はオナニーだ)、他人に素晴らしさを伝えることを怠ってしまった。理解できない作画に対して、「分からないけど、たぶんすごいことやってる!」みたいな単純なことができなかった。少なくとも3年は作画を語ってないとダメだとか、それからが本番だとか、そういった寿司職人のような、選民・宗教的な部分が衰退の原因だときわめて思う。

要するに、「他人に伝えるのを」が敗因だと思う。同時に、「他人の意見を尊重する」ということができなかったことも良くなかった。後者はとくにぼくも反省すべき点だろう。

まあでも、これはぼくの考えであるから、もうとっくに作画文化なんて終わってるやろ、と思ってる人もいるだろうし、極端な話、(感覚的な部分が多い作画の性質上)衰退せざるを得なかったという面も多分にあるとおもう。ぼくは黎明期とか知らないから、これでも十分に続いたのかもしれないし、落ち込んだ時期もあるかもしれない。

まああとは、ひょんなことから、また作画ブームみたいなのはきっと来るだろうし、未来の人たちに託すのみだ。

再確認したけど、やっぱりキャバクラではなくて、友達みたいに交流を求めているのではなかろうか。金払ってコメント読んでもらうとか、それこそ「友達代金」となにも変わらないよなあ。リアリティショー(もっと厳密に言えば、フィクション的な部分が少ないもの)が求められつつある中で、真逆のものでしょ?おれだったらゲームするかアニメ見るけどなあ、フィクション100%の方が没入できる可能性はきわめて高い。

リアリティショーのガワかぶった、中途半端なフィクションだから出来が悪いと思うんだよなあコンテンツとして。でも、なんとかとなんとかの絡みていていとか、なになにしか勝たんとか言ってるから、こう二次創作的な部分(つまり、視聴者がいっしょにクリエイトできる。まあこれは欺瞞っぽいけどね~)もあるんだろうね。いっしょにものを作って、いっしょに盛り上げていっている感覚がある。そういうのが合う人は合うんだろうなあ、まったくわからん。フェスとかとおんなじ感じやろ?なんでフェスはいかんでバーチャルは見るんやろか。

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