千了=1(別館)

日々の徒然、雑多なテーマに対し雑に述べる→本館はGOMISTATION

それはぼくらがまだ、微生物だからだ。ぼくらが受ける太陽の光は、8分半後に地球に来たもの。8分半前に、太陽から出たもの。それで、何万光年も離れた惑星から見ると、ぼくらはまだ微生物だったり、隕石がちょうど衝突したあたりに映るんじゃないのか。

ぼくらがなんかの惑星を見て、ちょっとした変化を見つけたとする。それは、ぼくらにとっての微生物だったころと同じだと思うんよね。ちょっとした変化が別の惑星にとっては、多大な変化かもしれない。この光のズレで、惑星間において交信できないのかなあとか思った。

でも、こんな素人にでも思いつくんだから、頭のいい人はとっくに気がついて、それに対する解決策も考えて、結果ないんだろうね。ぼくは理学部行って宇宙物理学を専攻したかったんですよ。もともと、文系なんてクソくらえ、国語なんてできない人間だった。そのままずるずる気持ち切り替わらなかったから、経済いっても落ちこぼれたし。金貯めて勉強すれば行けないことはないだろうけど、現実的には就職厳しいだろうしね。



人生はいちどきりで、時間は有限、というのは言うまでもなく。はたして、その行為はプラスになるのか。マイナスならば、それをやっても仕方ないんだけれどね。ぼくでガス抜きして、いったん気持ちよくなっても、それって人生において無駄な行為だからなあ。それでも、ガス抜きしたけりゃ、どうぞとしか言えんけど。ぼくでガス抜きしても意味ないどころか、マイナスだから気をつけて欲しい。

「ガンツ」と「いぬやしき」を読み直して思ったが、作者の人は、「死んだ後の世界」について興味があるから書いてるのかもしれない。で、宇宙に比べたら、こんなのはちっぽけだ、と言いつつも、あたりまえとしてある命のはかなさみたいな矛盾をテーマにしてる。だから、残酷に人が簡単に死ぬのを描きながらも、女の子を救いたい、救えてよかったみたいな感じになってる。

んで、「宝石の国」も、大雑把にいえば、「死者」と思うんだよ。死者というか、彼らはほぼ不死身。ガンツもいぬやしきも、彼らは永遠に生き続けるわけではないし、機械と宝石にもいずれ尽きるときはくる。だけど、僕らのそれとはまったく違う感じがする。そこから、さいきん流行っている、ヒットしてる漫画は、死後の世界というのが、一つのテーマになってて、そこから着想を得ているのかもしれない。誰しも、死後は分からないから怖い。だから、宗教だのなんだのあったけど、それが胡散臭くて時代にそぐわないものになった。

ぼくは、「寄生獣」が大好きで、何度も読み直す。そんで、寄生獣の主人公のシンイチも、まあまあ不死身じゃん。でも、いぬやしきや宝石のキャラほど、強くはなくて脆い。強くなったのは、ミギーを少し取り入れてからだし。だから、半分こしてるのが、僕らと身近なものにしてるのかな、説得力があるのかなとおもった。フォスが三半っていう硬さなのは、僕らと同じだからなんだよ。弱いから。


宗教の代用品だとは思わないけど、近いところがあるような気がしなくもない。自分でも思うくらいあ、なんか変な文章書いたな。

なんか宗教っぽいけどゆるせ

お金、健康、精神、楽しみ、快適とかに分けて、プラマイで考えて総合判断する。さいきん、こういう考え方でわりとうまくいっている。話題の仮想通貨は、お金儲かるかもしれんけど不安定、常にチャートが気になって精神はつらそう、いざという時の保険がない、楽しそうじゃない。だから、マイナスが自分には多いから、やらない。

なにか便利なものを買うときも、なるべく安く探しても、お金は減る。でも、それに見合った快適さは得られる。生活が便利になると楽しくなる。じゃあ、プラスの方が多いから買った方がいいなと。ダメでも少額で済む。総合的にリスクを見ると、幸せはお金じゃないっていう意味が分かる。もちろん、お金は大事だよ。それは当然、あるに越したことはない。ただ、最初の定義付けが大事であって、「自分にとって何が幸せなのか」という点に重点を置く必要があると思うのね。そこから、ああこれだけお金が必要だとか、社会人大学に行ってみようかとか、こういった資格の勉強しようかとか、そういう判断ができ始める。人生については、ボトムアップで考えたら、なんかダメな気がする。なんもわからず、まあとりあえず金持ちなるってやっても、モチベ続かんのよ。具体的じゃないから。

そう考えていくと、継続的にもらえるサラリーっていうのは価値が高い。あとは食い扶持に困らない資格/専門職とか、そういう「継続的なもの」はすごく価値が高いとおもう。だから、固定資産っていうのは、価値があるのね。くそほど当たり前のこと言ってるけど。税理士事務所で勤めてたときは、相続税の相談で、目ン玉飛び出るほどのお金の計算してた。最初20億のモノから、7億ぐらい税金かかるんだから、最初はいいなー裏山と思ってたんだけど、相談者の顔が暗くなっていくのよ。それ見て、あこの人は7億も税金かかると思ってなかったんだ、皮算用してたんだって分かった。


たとえば、なんかで2億もらいました。ってなったら、確実に幸せか、というと微妙。いや、たぶんおおかた幸せなんだろうけどさ。お金のために防犯意識は増える、思ったほど買うモノがない。それに伴って、精神的な負荷は増える。将来への不安はなくなるかもしれないけれど、どうなんだろう、プラマイゼロ/ちょいプラくらいなんじゃねみたいな。生活水準はいったん上がると大変だし、老後までお金が残る保証もない。ぼくにとって、不安というのは際限がないバケモノだから。お金をたくさん得ても確実に幸せにはなれない。不確実な部分が多すぎて、どうにも不安だなとおもう。

幸せになる可能性/確実性を最大限高めることが重要であって、お金は要素にしかすぎない。身も心も削って、すげえ金持ちになりました。だけど、ストレスで常にどこかが苦しい。常にだれかに怒っている。金を稼いでも稼いでも、どこか楽しい気持ちがない。それは幸せなのかと。ぼくはやっぱり、サザエさんの、ぱちんこで少し勝ってタバコをルンルンともって帰るマスオさんの話が好きなんよなあ。

そら永井先生よ。あれは本当のエンターテイナーやから、ウエブで一番おもろい人。いま有名なよっぴーだのヒカキンなんか束になっても敵わん。根底から違うからな、ホンマにおもろいことして笑わせたろっていうのがある。

かんぜんにプロレスやけど、あんだけ見事にプロレスやり切れる人みたことない。すげえから。こらえんどーとかは計算してやっとる。あれやれんで、自分下にして、調子こいたふりして、なかなかやれん。ほんまおもろい人とかすげえ人って金いくらでも稼いでくれっておもう。それだけで他人を幸せにしとるから。

エンターテイナーという点だけで、永井先生は尊敬しとるよ。おれもあれぐらい楽しませてみたい。エンターテイナーはむりやろうけど、記事を読んで、嬉しくなって帰って欲しい。

言語が通じない人、言っても分からない人、話す気がない人なんかに時間つかっても無意味でしかない。分かってくれる、わかろうとしてくれる人のために、時間を使おう。そうじゃねえと、おれもストレス溜まるだけだし、更新楽しみにしてくれてる人にもマイナス。儲かるやつは誰もいない。

かどうかも疑わしいイキリオタクがびんびんに「松本憲生親衛隊」を結成してました。「ぼくの憲生をいじめるなー!!!!!!んごおおお」っていう感じで、ていどの低い市民運動みたいで笑っちゃった。

いい加減な大人は曖昧に言うので、明確に述べておきたい。将来、まあ石油王にでもならない限り、ぼくらは働かないといけない。なにかやりたいことを見つけておかないと困る。そのときに、自分が何に興味があるかを事前にハッキリとさせておくためです。

化学を学び、化学系の学部に進んでも良い。大学や専門に入ったあと、もしも、別の方向に関心があれば、そちらに向かって努力をすればいい。とにかく、一つの方向に向かってみないと、他の方向に行きようがないと思うんすよね。だから、自分が何に興味がありそうか、何なら自分はやりがいをもって仕事をできそうか、自分の能力を発揮できそうか、それを見極めるのが、勉強です。

「怒り」を嫌う人はとても多い。自分の家族は特にひどく、父親と母親の間で「怒り」が起きて何も解決しない。そのようなことが長く続いたので、とうとう「怒り」そのものを回避するようになった。それが以前の、調整役としての僕の役目であり、両親を助けるための手段であった。

5、6年ほど経ってようやく分かったが、これは決定的に間違いであった。「怒り」を回避するために、常に誰かが気を使っていなければならなかったのだから、神経質になるのも仕方がない。それで、上の二人は早々に、あの家を脱出し悠々自適な生活を送った。僕は学生身分であったので、脱出できずにいた。いや、それどころか、調整役としての自分を誇りに思っていたとさえ、今振り返ると思う。そして、ある日、破綻した。そして、「お互いに話し合え、怒りをぶつけろ」と親に提案した。両親はそれを了承せず離別した。

そして、いろいろな日々を過ごしてきたけれども、とかく兄弟は何があろうとも揉め事を良しとしなかった。「怒り」を封鎖し続けた。僕は、先のことがあったので、「共同体において、衝突は不可避である。『怒り』は避けるのではなく、最小限にすべき」という方針を提案したが、これも結果としては却下された。そう、彼らは、「怒りの封鎖」の恐ろしさを身をもって体験していないのである。溝ができて当然だ。結論だけ言えば、長女と両親とは絶縁状態にある。今年の09.10月には、主に家族問題において、辛い事が重なった。積もり重なっていた。まるで、自分の「怒り」は正しくないものと思えてしまうようになった。どのような怒りをもってしても、何にも対抗できないでいた。

転機はこの前であった。ああ、なるほど、と会話をしていて感じた。深く深く納得した、すべてが繋がった。結論から言おう、「怒り」を良しとしない人間は、それと同時に「繊細さ」をもたない。繊細さをもたない人間は、己を省みることもなく、他人に注意を払わない。よって、他人を慮らない、極めて利己主義な人間となる可能性が高い。あくまで可能性であるが。その一方で、「怒り」を良しとする人間は繊細さを持つ。注意しておくが、この「繊細さ」という言葉は、良い意味合いでは使っていない。ニュートラルである。すなわち、繊細さをもった人間が、神経質となるか、他人を慮らるか、管理が上手いか、分析的であるか、姑のようなネチッコイ性格であるかは、まさしく個人個人によって変わる。その発現の仕方は個人によって異なるだけであるが、繊細さを持ち合わせていない人物とは比べるまでもなく、利己主義になる可能性が低い。ただ、前述したとおり、「繊細さ」は個人の生き方によって、その分化が変わる。「繊細さ」は、まさしく諸刃の剣といえる。自分を傷つけてしまうこともあるし、自分や他人を助けることもできる。ストレスフルな生活を送るか、それとも、楽に生きることができるかは、「繊細さ」の使い方によって決まる。こういう風に、自分の中では整理がついた。


と、いろいろ理屈じみて書いてみたが、ぶっちゃけ、これは願いである。そうあって欲しい、という思い。

このページのトップヘ