iakinglyのごみ雑記

雑多なテーマに対し雑に述べる、愚痴とゴシップも時々→本館はGOMISTATION

前からもう関わりたくない人達だったんでいいんじゃないかと思う。
ツイ作豚みたいな、もうなんかSNS上のアニメーターは批判しちゃいけない、褒めなきゃいけない、そういう同調圧力的な空気で一生やっててくれと思う。もうしんどい、自分に嘘をつけない。しんどすぎる。ああニヒリズム的な、冷笑みたいな態度ぼくは受け付けないんで。付き合ってられん。

まあ僕が嫌いな雰囲気に対してほぼ寛容さがないというのは、それはそれで大きな問題でしょうけどね。それは認める。きっしょいツイ作画界隈とは縁を再び切りました。一生内輪でSNSで目立ってる作画だけ持ち上げてきっしょいノリ続けてやってろボケカス。時間とメンタルの無駄やわ。

作スレもそんなに好きじゃないけど、ぜっっっっったい作スレのほうが100倍マシ。誤解しないでほしいからいちおう言うけど、作スレヨイショしてるわけじゃないからね。ただ、ときどき配信とかで流れるんだけど、作スレ住民がキチガイっていうのはだいぶ偏見入ってるってだけ。普通普通。専門板のドロドロ加減に比べたら普通。ツイ作豚は異常。だれもあれ喜んでやってねえよ。しんどい。

べつにこれは「論理性のない人間が悪い」という主旨の話ではない。まず、結論から言う。興味のない物事の中において、どのようなものに、そしてどのように関心をもつか、というのは、ほぼ決まっている。

A)アジテーションされたもの
B)きわめて資料性の高そうな整理されたもの
C)多くの人々が反応したもの

Aは感情的なものだ。ここに知性はなく、論理も根拠も必要がない。いや、むしろ邪魔になると言ってしまってよかろう。Bについては、資料性の高さから「コンパクト(情報の摂取が速い)」な情報であると、同様にCについては、多くの人々が注目したことから「重要な」情報・トピック・流行であると僕らは認識する。この情報社会において、自分の守備範囲外のエントリーやコラムの選択はほとんど合理的に行われている。

現代の情報はほぼ無限にある。自分の思考で判断し選択しなければ、自分にとって有意義、もしくは必要な情報は得ることができない。そういう風に多くの人は思っているとぼくは考えている。人々は情報を選択する際に、合理的な判断を下しているとは言ったが、その内容が論理的であるかどうかはいっさい関係ない。つまり、<外部>から見て、「便利そう」、「面白そう」、「すぐに読めそう」なものだと判断している。言い切ってしまえば、内部の情報、まさしく<内容>は情報選択の際には、意外にもさして重要でないのだ。

内容がいくら論理的で正しく、根拠も揃っていたところで、選択され注目されるかには関係しない。重要なのは、「外から見て、便利そう・面白そうなもの」なのだ。であるからにして、多くの人々が読んだからといって、正しい情報であること、自分にとって有意義な情報であることを保証しない。

小さく小さく論理や根拠を重ねて書いても、べつに良い。それが日記であるならば。ブログは少なくとも、すべてのネットに公開されたもので、そのエントリーはだれかに読んで欲しいという気持ちが含まれている。論理性は非常に高いが、まったく選択されないエントリーと、論理性にいちぶ欠陥は見られるかもしれないが、多くの人に選択され、その物事について議論されるエントリー、どちらが有意義であるかはもはや明白だ。「名を捨てて実を取る」と、同じことだ。だれにも気付かれない大きなダイヤを探すのと、馬券について悩むのと、どちらを選択するかなど、言うまでもない。


ようやく、というか分かっていたけれど、気付かずいた。くだらないことだ

クソ01
クソ02

こういう自分の玄人さの補填・補強のようなもの、「これが入ってないのはおかしい」とダダをこねるクソガキのようなものはきわめて、ぼくのやる気を落とした。ああ、なんの文章も読み取れていない。悲しい気持ちだった。伸びなかった以上に、もうこういう奴らにくたばって欲しかった。


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ヒラコーが揉めていたときのツイート(和解で仲良くなってたのでスゴイ)

まさしくこの通りで、ぼくは馬もそうだけど、知識の比べ合いっこをしたいわけではないんだ。楽しく話をしたい。メトロポリスに感動できないのは仕方ないにしても、こんなツッコミを入れられるのはそうとうに嫌だった。もうそういうのはウンザリなんだ。そういう時代でも、そういう流行でも、そういう態度でもないんだ、求められているのは。でも、そんな化石のような人間が山程いて、それに耐えられなくなった。

そこから大きく方向転換した。つまり、「宝石の国」記事である。西田亜沙子からはよく分からない指摘をなされたが、まあこれも箔がつくようなもんだろう。次には「よりもい記事」で大きくチャレンジした。議論が成り立たないのは、現代日本社会らしいと思った。で、やる気を落とした。

寄稿の依頼は、まさしく天からの救いであった。ちょうど落ち込んでいた時期だったし、ポジティブな気持ちにさせてもらえた。主題のクソなファッキューなやつらなど、どこにでもいて、何人でもいて、もうそういうのに構っていては、貴重な時間がなくなる。もっと、もっと、多くの人は喜んでもらえたはずだ。ワイヤーを、好きになってもらえた人がいるはずだ。


救われ

同じブコメ、大きく救われた。Twitter上でも時々ワイヤー記事はシェアされているようで、いやあんまりないかな。まだしぶとくやるよ。しぶとく。すげえもんだしてやっから、口空けて待っておけ。

訳合って40代、50代のご父兄の実情を知ることがあったんだけれど、まあ残務処理のとき。

今の40代のご父兄、特にお母さんの方は血眼になって、子供のために学習塾やいろんな物事を探すんですよ。それはどの世代でも変わらないじゃないかと思われると思うんですけど、ちょっと違ってて、たとえば、自分のような親父を引き継いだペーペーの人間に何とかならんかと聞いてくるわけ。親父がすごかったのもあるけど。

学習塾以外にも、「これからの時代、小学3年生のうちから英語はやっておいた方がやっぱりいいのか?」「英会話教室に通わせて慣れされた方が良いのか?」とかそういうことをお聞きになってくる方が多かった。まあこれは共通学力テスト(おそらく略称は共通テストになろう)が原因です。みんなふんわりしているんですが、今の中1が高校3年生になるとき、つまり6年後の2026年には共通学力テストの英語科目試験じたいがなくなります。じゃあ、どうやって英語の学力を測定するかというと、資格を用いる。特定の英語資格を持ってないと、そもそも国公立の大学受験ができませんよ、という時代になっていくんです。2026年からは。

これが先日、癒着疑惑で問題になったベネッセの英検(GTEC)だったりするんですけど、4技能というテーマを中心に組まれています。ライティング、リーディング、リスニング、スピーキング、ですね。もっとも速く認定されたのはたしかTEAPだったような。進学校の中1なんかはどうせもう速いんで、中2、3でそういう資格を取るように指導するんじゃないんですかね。遅くとも、高1だろう。その分他の科目に当てられるので、まあ余計に格差が広がってしまう感がある。

普通の学校の生徒は、英語資格を受けながら、他の勉強の対策もすると思うので、余計にギクシャクしますねえ。昔の京大理学部とか、そういう理数系特化型が得意な受験生の可能性は潰されそうです。まあ東工大にすべて流れていくだろう。その辺、国が作る試験なんていっさい信用してないから潔くていいですよね。高専から大学編入、短大工学部から大学編入、みたいな流れもあるかもしれない。後者は微妙です、あまり明確なソースなし。


となると、中高一貫化の流れは止めようがなく、さらに公立でもそのうち小中高一貫、私立の付属校みたいになっていくんではないかと思ってます。いちばんの苦しいところが、おそらく高校2、3年生で英語資格がないけど理系進学希望の子ですので、英語は受験テクで突破させて理系科目に時間を割く、という方法を自分なら取る。これ、英語能力余計に落ちそうな気がしますけどね、義務化は見直されるのか。いや、されまい。けっきょく、小学校から塾通い、付属国公立に通えるだけのお金がある世帯が有利になってしまう。教育の経済格差を縮めないといけないのに、広げていくバカな制度。古文漢文なくしてプログラミング入れろっていうバカいますけど、高校の勉強はアンテナ探しなんで、どこに興味があるかを測るものなんですよ。興味があるかないかをわかるためにあるので。プログラミングなんて入れる余裕はない。数学、英語、国語、社会、理科、これだけあるのに、古文漢文なくしてプログラミングなんか入れる余地も受験生が学ぶ余地も教える指導者もおらんわ。


おっと話が逸れた。

40代のお母さん方が他世代の親に比べて必死なんは、単純に就職氷河期を経てきているから、そりゃそうなるよねという感じで。あんな時代を経てきているので、苦労をたくさんなされている。子供にはそんな苦労をして欲しくない。それだけの気持ちが他の世代よりもとても強い。

そう思う。
別にこれは考えすぎでもなんでもなくて、役割をすら果たせていないのではないかとおもうことが多い。心の底から楽しめているのかと。自分の考えに率直で、素直に楽しんでいる人を見るたびに、なんとも羨望の眼差しである。じぶんは心の底から楽しめてはいない、ような気がする。中途半端だ。

よくある評論として、人々には「子ども」としての自分があり、「社会人」としての自分があり、「友人」としての自分がある。つまり、人々は時と場合に応じて、自分の役割─ロール─を使い分けている、というものだ。これには特に疑問はない。大いなる問題は、これらと同様に「オタク」としての自分がある、のかどうかよく分からないのだ。

抱き枕カバーには癒やされる。エイラのねんどろも見ていて楽しい。けれど、時々これって嘘なんじゃないか。そういうふうに思ってしまう。確信ができない。キャラクターの愛さえあれば、タロットなんてなくなさないだろうし、ねんどろすら上手いこと組めない自分に腹は立たないはずなのだ。だから、ロールプレイにすら失敗しているのではないか、と思ってしまう。ちゃんとできない自分に、憐れみを感じる。きわめて突き抜けることもできず、オタクの理解者であるかのごとく振る舞う。そういうのは醜悪でないか。

「正しいオタク」なんていうのは、まったく存在しないことは分かっている。けれど、どうにも、中途半端な存在であって、自分自身が嫌になる。無様である。

でも、きっと思い込みのような部分から、どの役割もスタートしている。だからこそ、今はそういう疑問があってしかるべきではないか、とも捉えている。

着地点は

・(偉い人)「すわせんすわせんすわせん」
→和解
・振り付けさんの名前をクレジット載せて、ED差し替えはしない


ここらへんだろうとおもいます。実行犯は制作か誰かわかりませんが、ぼくはいっさい盗作側(つまり星合の空アニメ制作側)を擁護しません。下手に擁護すると、かえってこういうのはよくない。微妙な擁護っていうのは、まあ要するに「味方から撃たれる」ということですから。分かってても批判できない人もいるのかもしれない、そういう辛さはある。まあこんなクソ記事も書かずに黙っているのがいちばん利口で最適です。どんな世の中になっても沈黙は金。


江畑さんはこれを機に、あんな、工業製品みたいな腕振りはやめたらいい。どうせ上手いんだから、ちゃんと女の子の腕振りも書けるはず。天メソのケツパンパンとか配信で見直しましたよ、やっぱり良かった。「少年メイド」って作品の作画(※サビあたりでメイドがモンスターを叩くシーン)も、デフォルメされた動きが面白かった。これがグリザイアと同時期なんだから驚くべきものよ、タイミングの使い分けが2つあるのかな。デフォルメ作画が江畑の真髄かもなあ。デフォルメの方はたぶんロトスコしてないやん、じゃあ、たぶんそれが本当の江畑作画なのだ。うまいのにロトスコする理由はなんなんだろう、頭打ちになっていたんだろうか。よく分からない。

まあ作品がいちばん可哀想やのう。サムゲタンみたいな扱いになっちまう。印象として、パクリってなりますから。作品じたいはなんもパクってないのに。

昔のおれだったら、こういうときにスタンスをきちっと示して江畑作画を紹介したとおもう。つまり、「擁護はせんが、過去の江畑作画も紹介するやで見ていけや、おっ少年メイドおもろいやんけ」みたいな記事をいそいそと作っていたとおもう。それがまあ、残念なことになんにも書く気が起きないから、まあナンダカナアと自分に思ったわけで。まあリスクを取らなくなっただけだな、つまらない。別館に書いているのがまたアレだなあ。

ちょっとだけ少年メイドには興味が湧きました。

定義をしっかり決めることは大事だけど、すげえこだわると余計にダメになる。定義じたいが決まらなくなる。さいしょはだいたいでいいよ、言葉も文章も。そこにこだわってると、すごいしんどい。完璧主義者は正直害の方が大きいから、だいたいかんぺきぐらいでいいんだよ。いいじゃねえか、少し語りとか文面が雑になっても、そういうの許容しないと。

さいしょからめっちゃ高尚に、完璧にやろうとするじゃんみんな。いいんだよ思った言葉で。感想でいいんだよ。それが結果的に、なんかダメダメでも別に大丈夫だよ。いちばん良くないのは、めっちゃ語っている感、やってる感になっちゃうことだよ。

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