IAKINGLY_UMA

馬、ゴシップ、その他生活モロモロ→本館はGOMISTATION

こんなくだらない感傷に浸るひまがあったら、ひとつでも記事をあげた方がよい

※本館用に書いたが、偉そうになってしまったので別館に投げる


日本における「作画を語る」といった文化は残念ながら過疎化の一途をたどっており、おそらくいったんは消滅してしまうだろう。そもそも、この文化は、あるていどの敷居があり仕方ないかなと思う一方で、もう少し間口を広くして楽しく参加する人を増やせたのではないか、とも思う。現実的に、これから人を増やすことはとても難しい。残るのは気色の悪いコミュニケーションの羅列だけだろう。

負けはある。仕方ないので敗因を考えよう。敗因は「語る」の定義にある、と思う。「これは語れている/語れていない」、ということで無駄な内ゲバを繰り広げたのをよく見た。語るとは、単純に「この人ってここがすげえよなあ」みたいなことで、つまり、「特定のアニメーターについて、自分なりにの言葉で説明する」ていどで良かったのだけれど、「面白さ」ではなく「正しさ」が過剰に重視されてしまい、「議論」ではなく「論破」のような方向に向かってしまったのが悪かった。そのように個人的には思う。

「語る」というのは、つまるところ「自分の”視点”を見つけて、他人に丁寧に説明(紹介)する」だけで良かった。複雑で難しい修飾語をつけるでもなく、よく分からない難しい理論を持ち出すでもなく(※他者に伝えるのだから、余計な複雑化は無意味だろう。自分にしか分からない理屈はオナニーだ)、他人に素晴らしさを伝えることを怠ってしまった。理解できない作画に対して、「分からないけど、たぶんすごいことやってる!」みたいな単純なことができなかった。少なくとも3年は作画を語ってないとダメだとか、それからが本番だとか、そういった寿司職人のような、選民・宗教的な部分が衰退の原因だときわめて思う。

要するに、「他人に伝えるのを」が敗因だと思う。同時に、「他人の意見を尊重する」ということができなかったことも良くなかった。後者はとくにぼくも反省すべき点だろう。

まあでも、これはぼくの考えであるから、もうとっくに作画文化なんて終わってるやろ、と思ってる人もいるだろうし、極端な話、(感覚的な部分が多い作画の性質上)衰退せざるを得なかったという面も多分にあるとおもう。ぼくは黎明期とか知らないから、これでも十分に続いたのかもしれないし、落ち込んだ時期もあるかもしれない。

まああとは、ひょんなことから、また作画ブームみたいなのはきっと来るだろうし、未来の人たちに託すのみだ。

再確認したけど、やっぱりキャバクラではなくて、友達みたいに交流を求めているのではなかろうか。金払ってコメント読んでもらうとか、それこそ「友達代金」となにも変わらないよなあ。リアリティショー(もっと厳密に言えば、フィクション的な部分が少ないもの)が求められつつある中で、真逆のものでしょ?おれだったらゲームするかアニメ見るけどなあ、フィクション100%の方が没入できる可能性はきわめて高い。

リアリティショーのガワかぶった、中途半端なフィクションだから出来が悪いと思うんだよなあコンテンツとして。でも、なんとかとなんとかの絡みていていとか、なになにしか勝たんとか言ってるから、こう二次創作的な部分(つまり、視聴者がいっしょにクリエイトできる。まあこれは欺瞞っぽいけどね~)もあるんだろうね。いっしょにものを作って、いっしょに盛り上げていっている感覚がある。そういうのが合う人は合うんだろうなあ、まったくわからん。フェスとかとおんなじ感じやろ?なんでフェスはいかんでバーチャルは見るんやろか。

「外国のゲーム会社が鎌倉日本を描いてくれた!!!」っていうネトウヨさんのホルホルにしか見えないんだよね
セキロではこんなことなかったんだけど
宮崎英高という素晴らしいゲームクリエイターに対する誇らしさとかみじんも無いんだよね彼らには
そこに気づくとまあ腹立つよね
彼らにとっては「外国からどう見られているか/どのように外国が日本をリスペクトしたか」が肝心であって、素晴らしいゲームかどうかは二の次なんだよね
外国人(ただし中韓は除くw)が作ってくれたら誉れ高いんだろう
ゲームのテーマは武士なのに笑っちゃうよね

おれはさ、ポリコレとこれは別に変わらないとおもうよ
思想入りで評価が歪んでいるっていう観点から見ればさ

なにがあっても、作品と現場は分けるべき(というか、ぼくはスタッフが亡くなろうが、その悲しみと、視聴は混同しない)だけれど、流石に京アニ事件はいまだかつてない悲惨な事件であったことは間違いないので、分けることは難しいのかもしれない。

ドライとか冷酷だとか、気取っている、そういったわけではなくて、ぼくは完全に作品とスタッフを切り離している。増尾さんのときは少しびっくりしたし悲しかったけれど、まあなんだ、増尾さんが参加していた作品を見る上で、ああ増尾さんが生きていればなあ、と思っても仕方がないのだ。という思いがある。庵野さんが死んでも同じとおもう。

松来さんなんて、今でもクー子や下セカのアンナが出てきたら、なんかゴタゴタ言うやついるでしょ。ぼくはあれ、マスコミや野次馬みたいなもんだと思って見てますよ。騒ぎたいだけなんだ彼らは。知っている逝去者を、センセーショナルに扱っているだけなんだよ。


キャラクターと声優が別個のものであると同時に、作品とスタッフは完全ではないが、切り離すことができる。切り離すことができないんだったら、RIPなんかする前に、そのスタッフの功績を調べ、分析し世に残すのだ。自分の言葉で、自分のできる方法で、彼らを残すのだ。遺族経験がある身から言えば、安っぽい追悼なんかされても遺族はちっとも嬉しくない。

本当にお世話になった、こんなことをしてくれた、あんなふうに接してくれた。尊敬する父が亡くなった後に、ぼくに届いた言葉は、そういった類のことで、形式的なお悔やみなんていっさい嬉しくなかったね。それが残ったファンの役目であると、ぼくは確信している。少なくとも、ぼくは、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの劇場版にあの事件を入れて見ることはしない。

脱ぎ方に工程がある服はすべてエロいのではないか?

反安倍ってなんなんだ・・・?

反鳩山とか、反菅とかなかったよね。
あと、ネトウヨには愛国者なんていないと思うよ。

ほんこれ
おれはこの意見で納得した。国が良くなって欲しいなんて微塵たりとも思ってなくて、嫌韓・嫌中の延長線上でしかない、思想とも呼べない、おろかなものだろう。つまり、「相手をやり込めたらいい」というマウント至上主義にすぎない。だから、嫌韓や嫌中と愛称が良く、マウントが取れない、アメリカやロシアには犬になる。北方領土なんてネトウヨは問題化しないでしょう。

おっすおっす
江畑諒真MAD.mp4_snapshot_00.30_[2019.11.02_06.42.01]

(見出し用画像です)




キャラクター、アクション作画
キャラクター


①目
②鼻
③口
④髪の毛
⑤その他パーツ
⑥タイミング(※共通)

顔面だけでもこれだけある。腕や指などのクセなど言い出したらキリがない。あとはアングルや影とか、しわとか…無限じゃん。だからキャラクターはタイミングと大きなパーツの運動しか見ない。全部見るとかまったく現実的ではない。そもそも、それを出来ている人はどういう視点から見ているのか?その辺の視点について、まったく聞いたことがない。聞きたい。



エフェクト作画

エフェクト

①煙の形(フォルム)
②ディテール(影、ハイライト、透過光)
③タイミング

一方エフェクト作画。抑えるべきものが少ない。極論、フォルムとディテール、これだけで済む。めちゃくちゃ楽しい。「なんとなくこんな感じなのかな?」を積み重ねていけば、だんだんと特徴が浮かび上がってくる。まあもちろん好みもあるだろうけれど、アクション作画について「ほとんどの人が把握するべきものを把握しているのか?」という疑問は常にあって、おれはそんな無茶はできないからしない、という感じ。ずっと変わってない。

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